金の燕
この場で推薦のことを説明しても聞く耳を持たないのはわかりきっていることだ。だからオレもヘリバーも無駄な説明はしなかった。それがクラリスには気に入らなかったらしく、ぷるぷる震えたあと、「知らないっ」と書類をオレに投げつけ、廊下を駆けていってしまった。
「……ちっ」
廊下にぶちまけられた書類を拾い、立ち上がると、無言でオレの鞄を広げている友人がいた。それに書類を適当に詰め込んで、悪い、と一言、オレは教室を飛び出した。どこかの教師が「廊下は走らない!」と百メートル十三・七秒の背中へ注意した。
* * *
「待てよ、クラリス」
「ついてこないでよ!」
同じ家に住む人間に言うセリフじゃないな。思いながら校門を抜け、いつもと同じ通学路をまるで競歩をしているように妹を追いかける。向こうも速歩きでずんずん家に向かっている。二人の距離は五歩ぐらい。走れば簡単に追いつくが、これが今のオレに許された間隔だ。
「クラリス」
「話しかけないで!」
「ローラに会いに行くんだ」
たたっ、と歩くリズムが乱れた。数秒してそろりと振り返る飴色に安心しつつ、その名を出さなければ振り向かせることが出来ない事実に落胆する。隣に着くことを許され、説明を求める目に一呼吸。
「オレ、ローラが嫌いだ」
「……そうね?」
「だけど……だから……なのかよくわからねえけど、……挨拶もなしに、別れたくない」
「今までだって挨拶なんてして来なかったじゃない」
正論だ。クラリスは時間と場所が許す限り取り巻きと一緒に見送っていた。
歩道の真ん中で論議するのも邪魔になるから歩を進めながらの告白だ。オレは今、自分の決意を生まれたときからの片割れに告げている。
「オレ、将来が見えてないだろ。ラン兄さんは軍に入ったしお前は菓子職人になろうとしてるし、ヘリバーは経済学ぶために進学するし……」
「進路決まってない人なんて、まだたくさんいるでしょ」
「まあいるだろうさ。でもオレなりに焦るわけだよ。そこに今日、オレがやってもいいのかもしれないって未来が見えたんだ」
そこで簡単に軍の身内推薦の話を出すと、クラリスの横顔は、ああ、と納得したように歪んだ。ラン兄さんを兄に持つのはこいつも同じだ。男のオレ程じゃなくても、少々話はあったはずなのだ。
「それとローラおねえさまを嫌いなの、何か関係あるの?」
「……ない」
でも、と間を開けて、クラリスがこっちを見るのを待つ。
「会いたいんだ」
クラリスの向こう側に、先日トマトをぶちまけられた八百屋が見えた。それを通り過ぎる間、クラリスは沈黙して口を開いた。
「正直、よくわからないわ。嫌いなのに会いに行きたいだなんて」
「オレもだ」
昨晩、ラン兄さんがローラを抱き締めていたことは話す気はなかった。それの真偽を確かめたいというか、自分の気持ちに整理をつけたいというのはもっと話す気はない。
オレは本当にあいつのどこが嫌いなのか。あいつが嫌いなのか。
「でも……ごめんなさい。そこまで考えていたなんて知らなかったとはいえ、大騒ぎしちゃったわ」
「いいよ。それだけ愛されてるって思うことにする」
「……ときどきマイクって気持ち悪いわね」
「ひでえ」
くすくすとクラリスが肩を震わせる。今日初めて心から笑ったのを見た気がした。何だかんだで仲の良いオレたち双子は、何となく手を繋いで家まで帰った。その手は先日握った手のように剣ダコなどない女の子の柔らかな手で、同じ時に生まれ同じような環境で育ったきょうだいの不思議を感じさせた。一緒に歩いてきた道が分かれるのが怖いのは二人とも同じ。でもいつかは離れなければならなくて、それがちょっと早めに来てしまったから驚いただけだ。大丈夫、そのときがきてもオレたちはきっと、繋がったままだ。
その晩、両親に軍へ志願する旨を伝え、一悶着あったも、クラリスが味方についていることもありなんとか了承を得、保護者のサインをもらった。もっと悩んでもよかったかもしれないが、敵はすぐそこに来ているのかもしれないし、何より優柔不断なオレがやりたいと決めたことだ。善は急げと翌日の朝、学校に書類を提出した。
そのあとは一週間後の月曜には現地へ向かえるようにばたばた忙しく荷造りや手続きをした。ちなみにラン兄さんの推薦は現地でもらう。弟が向かうということは速達で一足先に西へ向かった。
あっという間に出発の朝になり、オレは家族と登校前のヘリバーに見送られていた。母を一人にしたくなく、戦地へ明確な目的がないヘリバーはカジナスの街に残る道を選んだ。それはそれで周りから何か言われることもあるだろうけど、あの偉大な姉の弟としてではなく、ヘリバーもヘリバー自身の答えを見出したんだと思う。妹をよろしくな、といったら姉上をよろしくな、と返されてオレたちは笑い合った。
数日前には想像もしなかった未来。西行きの馬車に乗り込んで、オレは燕になりに燕を追いかける。