金の燕
3
完全寝不足な目を擦りリビングの扉を開けると、クラリスが立っていた。ラン兄さんの姿は見えない。
「あ、マイク」
「……はよ」
「ランお兄さま、出掛けたわよ」
早いな……、と口の中で呟くオレに、母さんが新聞を差し出した。その一面に、隣国のシャイニアが我が国グランドルへ領地拡大を一ヶ月以内に開始すると、宣戦布告してきた旨がでかでかと書かれていた。
「……何、だって?」
「トップが替わるとこういうことになるのよね」
笑顔を貼り付けたクラリスが指を擦り合わせる。時々忘れそうになるがこの妹は兄のことも大好きなのだ。
シャイニアは二年前に王が替わっていた。穏やかな政治、言い換えれば煮え切れない政治をしていた前王は、内々でクーデターがあったとかなかったとか、病死とは到底思えない情勢で亡くなっていた。その動きに備え、我が軍は人材を増やそうとし窓口を広げたから、コネのないローラが滑り込む隙があったともいえる。
「今朝速達で収集がかかって……きっとローラおねえさまも国境へ向かったと思うわ」
クラリスに朝食を勧める母さんに、妹は「昨日食べ過ぎたから」と笑顔で辞退した。食べたくない気持ちはわかる。オレも朝食どころじゃないからだ。でもこれから学校に行くのに空腹では午前もたない。一口でいいから、とオレも勧め、サンドウィッチを頬張る。
「ランお兄さま……ローラおねえさま……」
クラリスが誰ともなしに呟いた。
何もかも急すぎる。ローラとの距離の置き方がわからなくなった。兄さんとローラの一週間の休暇がたった二日で終わった。自分のことで精一杯なのに……国レベルの戦争が、始まろうとしている。
泣きたくなったのはハムの胡椒のせいにして、オレはクラリスと一緒に登校する。
* * *
学校はシャイニア国の噂で持ちきり……ということはなかった。確かに話しているクラスメイトもいるが、世間話の一環に過ぎないようだ。半年前のほうがまだ騒がしかったかもしれない。戦争なんてあまりに遠い現実なのだ。見えないところの喧嘩なんて興味があっても見にいけないし、自分に被害が来ないとなると騒ぎ立てても仕方ない。ここで食糧が高騰したり学校が無期限休校になったりしたらまた違う騒ぎ方もできるかもしれないが。
ただ、オレと似たような顔をしている奴もいた。ヘリバーだ。
「よお」
「マイク……」
おはよう、と無理矢理に作った笑顔を向けられる。オレもそれに返し、ちょっとした沈黙が流れる。教室は黒板の日付以外、先週と何も変わらない。
「……ランゾールさん、出掛けた?」
「ああ」
「うちもだ」
クラリスの言った通りだった。ふうとヘリバーは重い溜息を吐いた。
オレやクラリスにとって、戦争は他人事ではなかった。何しろ身内に軍人がいるのだ。しかも戦地に今朝赴いたばかり。このクラスには家族に軍人がいるのはオレとヘリバーだけだった。
窓の外を見ようと思い、視線を上げる。教室は担任教師が来るまでの時間を貪るがごとく平和に騒がしい。と、気付いたことがある。元なのか現なのかローラのファンクラブメンバーは、活躍が見られるかもしれないと浮き足立っているように見えた。
「相手にしないほうがいい」
「……わかってるよ」
オレは外の景色を見るのは中止して友人と机をじっと見つめる。こうやって沈んでいるのを目聡く見つけたクラスメイトがいたとしてもどうでもいい。オレにあいつらの気持ちがわからないように、あっちにもオレの気持ちはわかるまい。
「ねえ、ヘリバー君」
ツイ、と紺色のスカートの裾が見えた。呼ばれたのはオレじゃないが視線を上げる。件のローラファンクラブメンバーが二、三人固まって寄ってきていた。
「その……訊きたいことがあるんだけど」
「姉上なら出掛けたよ、今朝早くに」
「やっぱり!」
ぱあっ、と嬉しそうに女子がはしゃぐ。自分らの王子様が戦地に赴いたとわかればやはりこうあるべきなのだろうか。むしろ国民のあるべき姿なのだろうか。オレも兄さん頑張れと明るくなるべきなのだろうか。名誉なことだと、死んで来いと思うべきなのだろうか。
「……」
「マ、マイク」
「あのね、軍の馬車見たのよ! ほら、うちってちょっと遠いから早めに家を出るのね。馬車の乗り換え場所も通るんだけど、ちらっと長身の金色の髪が見えて……すぐ乗り込んじゃったんだけど、ああ、ローラおねえさまかも! って!」
その馬車にはラン兄さんも乗っていたのだろうか。昨晩の光景が脳裏によぎった。
「……」
「ほ、ほらみんな、そろそろ予鈴鳴るし、席ついたほうがいいんじゃないかな」
「あ、うん、そうね! ありがとう、ヘリバー君!」
女子が明るく手を振った瞬間に予鈴が鳴り、あと五分で教師が来ることを念頭に自らの席へ戻っていく。そして席の近い友人とまたおしゃべりを始めるクラスメイトたち。どこまでも、平和な朝だった。
* * *
「帰りましょ、マイク」
「それじゃあ、よく考えて」
「はい、ありがとうございます」
担任教師へと頭を下げ、数枚の紙を持って廊下側の一番後ろの席へ戻る。今日一日使って大分落ち着いたのか、ひょっこりと鏡でよく見る顔が穏やかそうな表情で扉から覗いた。
「その紙、なあに?」
クラリスがオレの手許を指差す。その質問はされて欲しくなかった。でも隠していてもすぐバレることだし、オレは無言でその紙を差し出した。横で同じ紙を持ったヘリバーがいいのかと目だけで訊いてくる。いいんだ。オレは自分にいい聞かせるかのように頷いた。
「進路変更希望……?」
クラリスの頭が不思議そうに傾がれ、飴色の髪がするりと肩から滑る。一枚目をめくり、二枚目のでかでかと書かれた文字に、ぐっと眉間に皺が寄った。
「国境兵、急募……って、マイク!」
「話は朝、お前のクラスもあっただろう?」
「そんな……っ、許さないわよ!」
皺になるのも構わず、西部国境強化のための一般兵募集の書類を持つ手に力を込め、クラリスが叫んだ。今朝、苦労して貼り付けたんだろう作り笑顔が台無しだ。
「ねえヘリバー、何か言って……」
身内の活躍の場に喜んでいるのは建前。オレの妹も、実際は怖くて怖くて仕方なかったのだ。
「……あなたもなの……っ?」
クラリスが読むのを中断したと思うその先には、血縁者や知り合いに軍人がいれば、推薦というかたちで入軍しやすいという旨が記されている。
「クラリス、この書類はもらうだけ」
「嘘よっ!」
ヘリバーの説得にクラリスは飴色の髪をぶんぶん振った。
「何でラン兄さんのときは止めないで、オレのときは止めるんだよ」
「それは……状況が違うじゃない!」
確かにラン兄さんが入軍した三年前、戦争は始まっていなかった。配属された西部国境警備も、シャイニア国がちょっと内々ざわついているなあ程度だったし、半年前の防衛戦まで一般兵とはいえ高給取りの軍人の、格好良い自慢の兄だったのだ。
「クラリス、落ち着いて……」
「落ち着け? 落ち着いてられないわよっ! だってねえマイク、わたしたち義務教育生よ?」