金の燕
「昨日は、……ありがとう」
水音に掻き消されてしまったかもしれない。むしろ消されたほうがよかったのだが、ローラの耳はとてもよく働いたらしい。
「別にそんな気にしなくても……でも」
どういたしまして。
微笑む姿が、ああ美人だな、と思ってしまう。それがいけない。冷たい水の中でオレは、頬が火照るのを感じた。
* * *
夕暮れに部屋が赤く染まる。カーテンを閉める元気もなく、濡れた服を床に放ったままオレはずっとぼうっとしていた。今日の午前のことを思い出すと頭がぐちゃぐちゃになる。あれからオレたちは十メートルぐらい離れて最寄のポストまで行き、濡れた服のままなんとなく別れた。あっちは別れの挨拶をしていた気がするけど、よく覚えていない。
「ただいま!」
ぼんやり双子の妹に目を向ける。朝は制服で出かけたはずだが、何故かいつも見かける私服を着ている。たんぽぽ色の生地、適度にレースやリボンをあしらった膝丈のワンピース。
こういうひらひらふわふわに憧れるのか。わからない。男が筋肉に憧れるのと同じ感覚だろうか。
「ローラおねえさま、チーズケーキ召し上がってくれたんですって! 美味しかった、って微笑んで下さったの……!」
「あいつはもっと甘い物をご所望だぞ……」
「ああっ幸せっ」
興奮極まって持っていた鞄を投げられる。キャッチするとそこから紺色の生地がチラリと見えた。……わざわざ学校で着替えてシグ家に赴いたのか。やっぱり女の気持ちはわからない。
「それでね、マイク!」
「はいはい何でしょー」
「明日パーティを開くことにしたから!」
突拍子もない発言にオレの思考は一瞬止まる。
「パーティ?」
「ああ、ダンスパーティとか大袈裟なものじゃないわよ、ただのホームパーティ。腕試しも兼ねたわたしのお菓子を食べて頂くの!」
興奮気味の妹から聞いた経緯はこうだ。ベークドチーズケーキを褒めたついでにローラが将来はどうするのか尋ね、とある菓子職人へ弟子入りすることをクラリスが告げる。じゃあ辛口評論したほうが良かったのかな、といったローラにうちへ来て下さいとクラリスが試食会を提案。日曜だしヘリバーも呼んで、オレんちでホームパーティを開くことになったらしい。
クラリスの菓子を食べられるのはいいけど、一つ問題がある。
「じゃ、もう遅いけど買出し手伝って、マイク!」
ということだ。返事も待たずに飴色の髪をなびかせ、クラリスが部屋を去ろうとする。その際、放り投げてある布の塊に足をひっかけ、目線を下げた。
「何コレ、脱ぎっぱなしはよくないわよ! え、何で濡れてるの! ってよく見ればマイク服着てないじゃない!」
「産まれたときは皆裸さ」
「あなた産まれて何年経ったと思ってるの!」
人類皆兄弟、訳のわからない言い訳を述べながら、オレは裸を妹に見られつつベッドから起き上がった。
* * *
さて、パーティは概ね成功に終わった。チョコレートとチーズのマーブルブラウニーは「もうちょっと混ぜるのを抑えてマーブル模様を出したほうが見栄えがする」、レアチーズケーキは「ちょっと酸味が強い」、ストロベリーのチーズボールは「出来上がりに蜂蜜などかけて艶出しをするといいかもしれない」とローラは的確なアドバイスをし続け、ラン兄さんやオレ、ヘリバーは美味い美味いと食べ続けた。とりあえずチーズづくしだったのはクリームチーズでどのくらいレパートリーを増やせるかの実験だったからだ。ちなみにローラが甘い物好きという情報はあまり反映されていなかったので、砂糖たっぷり入れたココアにマシュマロを浮かべてクラリス経由で出したら、大層喜ばれた。オレの好きな飲み物を喜んでもらうのはちょっと嬉しい。こういう気持ちを味わいたくてクラリスは菓子作りの道を選んだのかもしれない。ローラのアドバイスのメモを取っている妹の真剣な眼差しを見て、オレは羨ましく思った。
昼から始まり夕暮れの時刻、ローラとヘリバーが自宅に帰ることになった。友人を学校と同じように見送って、その姉のことは特に見送らず、灯りもつけず自室に引き籠もる。
今日一日、話す機会は何度もあった。しかしクラリスを盾に、オレは何か言いたげなローラの目線を避けに避け続けた。帰る間際のついさっきも。
「……ん?」
何か言い争いをしている声が聞こえ、のそのそカーテンを薄く開く。ちょうどオレの部屋から見える木の下、人影が二つ動いている。
ラン兄さんと……ローラだ。
ヘリバーと帰ったんじゃないかと思っていたのだが……ラン兄さんが仕事の話を思い出したのだろうか。
話の内容は聞こえない。しかし真面目な話をしているのは雰囲気でわかった。だんだん暗闇に慣れた、緊迫した空気の中、ローラが踵を返そうとした。「ローラ」と兄さんがその腕を若干乱暴に捕らえ――抱き締めた。
「……!」
「マイク、片付け手伝って!」
クラリスの声が階下から聞こえたが、聞いている余裕はなかった。布団を被って夕飯も風呂も無視し、オレは外界を全て拒絶した。
心臓がドクドク嫌な感じに波うっている。憎悪感がこみ上げるも、それが誰に向けてなのかわからないまま、オレは無理矢理思考を遮断して目を瞑った。
シャイニア国が宣戦布告をしてきたのは、その翌朝のことだった。