金の燕
その表情からして何度か呼ばれていたらしい。ほっとした顔で兄さんが隣に座った。同郷の、家族の懐かしさだけじゃない。胸から何かこみ上げてきてオレは必死に舌を噛んで涙を堪えた。
「腕、大丈夫か?」
ラン兄さんが左腕を目線で示しながら問うた。オレは無言で頷き、兄さんはそうかと息を吐く。一病室の前で沈黙が落ちた。日も落ち、窓の外は薄暗い。
首を切りつけられるも、手早い処置のおかげで何とか一命は取り留めたが、ローラは意識を取り戻さないままだ。いつ何が起こっても不思議ではない。そんな廊下、ラン兄さんはどう言葉をかけようかと悩んでいる風だった。
「俺は今日任務で試合には出なかったんだがな……ナロトン殿から聞いたよ」
「……そっか」
「大変だったみたいだな」
ナロトンはオレが試合に乱入している同時刻、木の上で鏡を操っている人間を捕まえた。そいつは第十五番隊のニギ副隊長の息子で、間接的にローラを敵対視している人間だった。本来ならヒガ隊長がやめた後、隊長になるのは副隊長のニギ氏だったはずだったからだ。そういうのを世間では何というのかオレは知っている。逆恨みだ。どこかで出会った隊長の息子と副隊長の息子はタッグを組み、ローラを傷つける機会を窺っていたのだろう。その機会が戦場だったら……怖すぎて想像出来ない。
「もうお前の噂で持ちきりだ。マイク、脚速かったけど火事場の馬鹿力ってやつ……」
「やめてくれ、兄さん……っ!」
ぶんぶん被りを振るオレの肩を引き寄せ、兄さんは静かに言い聞かせた。
「……お前はよくやった。審判さえローラ殿の異変には気付かなかった。……公平な目で見ようと思っても、やはり快く思っていない面もあったんだろうな……」
項垂れるオレに兄さんは数秒置いて、一呼吸。包帯から目線を下げ、オレの左手首に鎮座する銀色の燕を見て、どこかやりきれなそうな溜息を吐いた。
「……まさかお前が軍入りを志願するとは思わなかったよ。推薦の依頼状が来たときは本当に驚いた。……逆に、ヘリバー君から来なかった旨を聞いたときは驚かなかったけどな」
兄さんはオレを解放し、じっと目の前の病室の扉を見つめた。
「シャイニアがこちらに攻めて来るという噂はあったんだ。もしかすると戦争になるかもしれない、その直前の休暇だというのに、家にお母さんを置いてきては可哀想だと……つまらんことも言った。お前はともかく、俺やクラリスは喜ぶが……」
そうだったのかと納得する反面、何のことかと悩んだが、いつかの日曜のホームパーティのことだと思い至った。
「隊長になっていろいろ苦労もあっただろう。家で休んでいたほうがいいと言った俺に、ローラ殿は余計な世話だと言った。その通りだ。俺はカチンときて、戦争が明日にでも始まったらどうすると言ってしまった」
心臓が跳ねた。夜の話だ。オレが覗き見、盗み聞いていたことを知ってか知らずか、ラン兄さんは続ける。
「そうしたらローラ殿は、家族や俺、クラリス、そして……、お前――マイクを失うのは嫌だと……泣き出した」
「……」
「それがあまりに切羽詰まった声だったからかな、帰ろうとしたローラ殿を俺は堪らず抱き締めていた……。……それがあの夜の真相だ」
目を瞑る。ローラがそんなことを思い、言い、泣いたのだと知って、胸が押しつぶされそうになった。自分がやったことは何だ。ローラと兄を不審な目で見て、軍までついてきて、挙句――。
オレは居心地の悪さに、ラン兄さんから少しでも離れようと身動きする。
「なあマイク。お前の決意や成長を否定するつもりはない。ないが、お前は本当に、軍人になりたいのか?」
ぎゅっと膝の上で拳を作る。燕が動く。
摸擬試合で自分の実力はわかった。この状態で戦場に出ても足手まといになるのは必至。仲間を助けようと後先顧みず突っ込んでみたけど、自分の怪我ならまだしも、その仲間に庇われ、挙句――、洒落にならない大怪我を負わせてしまった。もしかしたらその命までを奪いかねない、大怪我を。
ローラが寝ている病室を穴があくほど見つめると、じわりと涙が浮かんできた。
「……シグ隊長? ――シグ隊長!」
病室からの声に兄さんが立ち上がる。それよりも速く、オレは挨拶もせずに扉を開いた。
「ローラ!」
ベッドに駆け寄る。咎める者はいない。いても気にする余裕はない。ローラの部下、または怪我を負わせた者へ加担した人間の父親、ニギ副隊長がオレへ場所をあけた。
「ローラ!」
「……ま……」
金髪は砂埃で艶をなくし、血を出し過ぎたのだろうか、肌は青白い。そして首……深過ぎはしなかったけども決して浅くもなかった左側の首筋にガーゼが当てられ、首は白い包帯でぐるぐる巻きにされていた。先生を呼んできますと後ろでラン兄さんの声が聞こえた。
「ローラ、ごめん、オレのせいで……本当、ごめん……!」
目覚めてよかったという言葉よりも先に、謝罪の言葉が口をついていた。しかし何て空々しいセリフか。オレは何と詫びればいいのだろう。許されるはずもないのだけど。
「……マイク……」
喋らなくていいと頭を振るオレにローラが腕をかすかに持ち上げる。その手首には金色の燕が留まっていた。その手をぎゅっと握る。剣ダコで堅くなった女の手。でも何よりも替えがたい、女の手。
「……ぶ、じで」
「ローラ!」
細く開かれた碧色が段々閉じられていく。
「……よか、った……」
ふっ、と息が吐かれ――オレの握る手から力が抜けた。