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赤いしるし

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 ぼくは立ち上がり、すぐにトイレへ駆け込んだ。男は立ち上がろうとする素振りを見せたが、すぐに元の姿勢に戻った。

 叔父さんは酔うとすぐにぼくの話を持ち出し、誰にでも話してしまう。変な営業や宗教勧誘が毎日訪ねてくるのもその所為だ。叔父さんにとってぼくの存在とは、新聞の記事やテレビのニュースの内容のようなものなんだろう。

 制服のポケットから、手のひらサイズのカッターを取り出す。刃先が茶色く錆びている。

『両親が心中して、子ども一人残して自殺したらしいわよーー。育児放棄にも程があるわよねーー』

 腕を捲る。青白い素肌に、血管が薄く浮かび上がる。柔らかい皮膚に、刃を当てる。皮膚の弾力が感じられる。

『叔父さんの家で一緒に暮らそうよ。うちには優しいママもいるし、兄弟もいるぞ。一人のままじゃさびしくて、何も出来なくなってしまうよ』

 すーっと刃を動かす。表面の皮だけをなぞるように。

『おとーさん、ずりーよあいつだけ家を丸ごと一人占めして、小遣いもいっぱいもらえて。俺もあいつの家に住ませてくれよ!』

 赤く引かれた一筋の線から、ゆっくりと気泡のように血が溢れる。ほのかに金属質なにおいが鼻腔をくすぐる。

『お父さんと、出掛けて来るね。今日は帰りが遅くなると思うから、戸締りはしっかりして、先に寝てていいわ。ご飯は冷蔵庫に色々入ってるから、好きなもの食べてちょうだい』

 ぼくは用を足さずにトイレから出た。男は態勢を変えずにベッドに座っていた。

「……消毒液も、包帯もここにはないぞ?」

 赤く挽かれたぼくの腕を見ながら、男は無表情で言った。

「化膿する分には構わない。傷は浅いし、すぐに止まる」

 赤黒く滲んだ左腕からは、脈打つ度に痛みが走る。手先が僅かに痺れを感じる。

「教授は言ってたよ。『この世界には、オンナとして産まれてきただけで、不幸な目にあっている人が多すぎる』ってね。俺は賛同しないけど。君みたいな環境に産まれた子は、男女関わらずいるだろうし」

「オンナは不幸を具現化しやすいから、そう思えるんだよ。きっと」

「男だって、死にたくなっておかしな行動に出たりするぜ?」

「私は、死にたいんじゃない……。痛みを、忘れたくない」

 ゆっくりと、腕から手の甲に向かって血が流れ落ちてくる。

「喜びは、簡単に忘れてしまう。憎しみは、果たしてしまえば別なものに変わってしまう。でも、悲しみは、忘れない。紛らわすことは出来るけれど、永遠に忘れられない」

 ぼくはニスの輝きを失ったフローリングに目を向けながら続ける。

「だから私は、痛みを忘れてしまった時が来たら、死んでしまう。痛みがある限りは、生きている実感が湧く。血が流れて、痛みを感じるのは……忘れていない証拠」

「俺はそんなことをするぐらいなら、自分が汚れても相手を傷付けてでも、紛らわすことを選ぶけどな」

「タバコは吸う癖に?」

「ははっ。肺を汚して誤魔化してるんだよ」

 男はそう言って立ち上がり、ベランダを開けた。外の冷気が入り込み、露わになっている左腕から寒気が伝わった。男はすぐに窓を閉め、ズボンのポケットからハイライトとライターを取り出し、すぐに吸い始めた。煙がベランダから灰色の空へと混ざっいく。ぼくは彼に挨拶しないまま、部屋を出た。


 家に帰り、玄関を開ける。当然だが、靴は自分の分のものしかない。ローファーと靴したを脱ぎ、氷のような床の上を、爪先立ちで進む。

 外には音が溢れかえっている。声、騒音、雑音、音楽……。ぼくはそれらを心地よく感じたことがない。常に耳を立てて警戒しているうさぎのように。家の中では、限られた音だけが鼓膜を刺激する。それは、自分一人でしか味わえない環境。

 エアコンから生暖かい風が送られる。制服を脱ぎ、下着姿のまま、生温かい床に寝そべる。冷えたままの長い髪が、床に広がる。視線は床の上の微かなホコリに向けられた。

 やがて、カーテンの隙間から挿す明かりが無くなる。室内から色彩は失われ、輪郭だけが空間を描く。

 シャワーから生温いお湯が注がれる。身体が不自然な温もりに包まれる。髪が頬や背中に貼り付く。水滴が身体に触れる度に、自分が汚れていくような気がして、気持ちが悪かった。

 冷水が張られた浴室に浸かる。足先から首へと、水と同化していくかのように体温が奪われる。皮膚の毛穴が一瞬にして締まる。顎が震え、歯がかちかちと鳴る。傷口が染みる。生きている心地がする。

 お母さんは、些細なことで、しょっちゅうヒステリーを起こす人だった。ぼくはそれを不快には感じなかった。手を滑らせて、誤って食器を割ってしまうことと、変わらないと思ったからだ。

 お父さんは、いつも深夜に仕事から帰って来ていた。眼鏡の奥からは、家の中にいても、遠い街を見ていた。目を合わして話を交わした記憶は無かった。

 4年前は、それがぼくの生活だった。ぼくたち、家族の。

 中学校の保健の授業で、女子生徒だけが集まって、授業が行われた。ぼくにとっては、入学したての小学校での、ひらがなの書き方練習のように退屈だった。お母さんに嫌というほど聞かされていたからだ。ぼくは、子どもが産めないことを。

 冷えた身体をタオルで拭く。全身が仔犬のように震える。ぼくは床暖房で暖められた布団に包まり、ゆっくりと瞼を閉じた。


 携帯電話の振動音で目が覚めた。ぼくのケータイは、叔父さんからの電話しか鳴らない設定にしてある。

「安田……昨日会ったと思うお兄さんが、君の家の前に来てるから、玄関を開けてやってくれ」

「……私は、彼のお願いを承諾してませんけど?」

「うん、それは聞いたよ。ただ、ちょっと……彼にもワケがあるというか、ともかく顔を合わせてくれないか?」

 ぼくはしぶしぶ玄関を開けた。昨日と同じ格好の男が、俯きながらじっと立っていた。

「女が……死んだらしい」

 男は震える喉から精一杯に声を発していた。

「金とか、そういうのはどうでもいいんだ。けど、無くなった。空っぽになったんだよ。生きる希望が。……君のツラい気持ちが本当に分かったよ。孤独を突きつけられた。どうすれば、こういう時、どうすれば……」

「あなたの商売の、交渉が決裂しただけ」

「ふざけるな! 確かに俺は彼女に買われていた。だけど、もうそんなことは関係無くなってたんだ。俺にとっては、家族と同じだったんだ……」

 男はその場に項垂れて泣き崩れた。

「失った者を救うことが出来るのは、失った悲しみを知っている自分だけ」

「よくそんなことが言えるよ。君だって、両親が死んだ時、今の俺みたいに惨めになっただろう? 誰かに縋りたくなっただろ?」

「縋る方法はいくらでもある。既に空っぽの私に縋っても、タバコの代わりにしかならない」

 ぼくは男の頭上にそう告げ、扉を閉めた。呼び止める声と扉を拳でどんどんと叩く音を無視して、ぼくはリビングの生温かい床に寝そべった。

 男は理性は一時的に失っていたが、心は失っていなかった。ぼくに縋りに来たのは、単に都合が良かったのと、叔父さんの元に就くための口実作りにしか見えなかった。

 身体の傷を増やす必要は無かった。
作品名:赤いしるし 作家名:みこと