赤いしるし
「きみ、いくつ?」
ブラウンのコートを纏った男が訪ねた。ぼくは視線をトレーに向けたまま、ハンバーガーを手に取りながら答えた。
「若いよ」
「それは、見れば分かる。中学生かい?」
「違う。高校生」
制服のデザインに特徴が無く、学校が近くにないため、本当に勘違いしたのだろう。
男は無断で向かいの席に座った。ショルダーバッグを椅子にかけ、肘を机に乗せてぼくの顔を除く。顔を上げると、案外整った顔の青年が真っすぐな目を向けていた。
「口にケチャップついてるよ」
男は笑顔で指を指して言った。ぼくはすぐに紙ナプキンで拭いた。赤いシミがナプキンに滲んだ。
「友達はいないの?」
「必要ない」
「さびしくないのかい?」
「……分からない」
「彼氏は?」
「いらない……」
ぼくは作業的にハンバーガーを喉に通し、席を立った。男は驚いた様子もなく、ぼくの後に続いて店を出た。
「これから何処に行くの?」
「あなたには関係ない」
「はは、そうかな?」
男の軽い笑いが、背後から耳に入ってくるのが不快だった。
横断歩道の前で、ぼくは立ち止まる。男の気配はまだ死角から感じられる。
「君の叔父さんに頼まれていてね」
ぼくは反射的に彼に振り返った。両手をコートのポケットに突っ込んだまま、彼はいやらしい笑みを返した。
「今日は一段と寒いし、君にとって曜日はもちろん、クリスマスや正月なんかの行事も関係ないだろう。ただ変わらない毎日を過ごしている。だけど、そんな生活で満足してるのか? もうちょっと刺激が欲しいだろ」
「刺激なんて受けて、どうするの?」
車の過ぎる音が聞こえなくなる。代わりに人々が動き出す。ざわざわと、空気が揺れる。ぼくと男は立ち止まったまま、人々の流れを妨害する。
「少しは前を見ろ、てことだ」
「前は見てるよ。今までと変わらずに」
サラリーマンの体が肩に当たる。舌打ちをして横断歩道を渡っていく。
「そうか。だったら俺の必要は無いな」
男は背中を向けると、さっさとその場を去ろうとした。
「待って。あなた、叔父さんの……ゼミの人でしょ?」
男はすぐに立ち止まり、首を回して顔を向けて「ご名答」と答えた。
「いいよ。ついていく」
「素性が分かった途端に素直になるなんて、最近の子供はかしこいんだな」
男は手招きをして再び進んでいった。ぼくは彼の後についていった。信号は再び赤く照らされた。
都内も駅前や大通りは、そびえ立つ建物や派手な電飾の看板に囲まれているが、一つ脇道を抜ければ、雑居ビルが佇む灰色の町になってしまう。太陽が隠れ、体温を奪うこの季節には、ぴったりな光景だった。
男は、一階に駐車場のあるオフィスビルの中に入っていった。ポストにはどの部屋にも名前が書かれていない。ローカルなエレベーターは、6階へと案内した。
「アパートやマンションっていうのはね、本来ならプライベートなんて存在しないんだ」
「じゃあ、どういう場所なの?」
「このように、各階に部屋が数カ所に分けられているだろ? その部屋に誰が住み、どんな生活をしているかどうかは、その部屋に入ってみなきゃ分からない」
男は扉の前に立ち、ポケットから鍵を取り出した、非常用の螺旋階段のすぐ近くの部屋だった。
「だけれど、扉なんてあってないようなものだし、鍵なんてすぐに開けられる。隣の部屋との境界は、薄い壁一つしか無い。家族でも兄弟でもない他人が、ほんのすぐ近くに存在し、生活しているんだ」
彼はドアノブに鍵を差し込み、私の目を見て言った。
「もし隣の住人が、指名手配中の凶悪犯罪者だったらどうする? 俺はどうもしないな。ビビるだろうけど、別に気にしない。気になるんだったら、部屋を変えればいいだけの話さ」
「何が言いたいの?」
男は扉を開けた。金具の軋む音がビルの空間に響いた。
「つまり、狭い空間に自分一人だけの世界を作った気でいても、結局人間は群がって生きているのさ」
玄関に入ると、サンダルが二つと、ハイヒールの靴が並んでいた。ぼくは履き古したローファーを脱ぎ、揃えてから廊下を進んだ。
キッチン周りは、暗い中でも反射しているのが分かるくらい綺麗に磨かれていた。底の焦げた薬缶が、コンロの上に置かれていた。
部屋は六畳一間だが、ベッドと本棚くらいしかなく、余計な家具が無い分広く感じた。男は紺色のカーテンを開け、部屋の明かりをつけた。昼間なのに暗いのは、日当りの所為というよりも、今日の天気が原因のようだ。
「これでもキレイ好きでね」
「本当?」
「ほんとだよ。この部屋を見れば分かるだろう?」
「この部屋、住んでないでしょ?」
ぼくは床に腰を降ろし、ハンドバックを膝の上に置いた。
「……バレバレか」
「人のニオイがしないもん」
「ニオイ?」
ぼくはこくりと頷いた。彼は着ていたコートを畳み、ベッドの枕元に置いた。
「さては君、嫌煙家だな?」
「タバコなんて、赤ん坊のおしゃぶりのようなものでしょ」
「そんなことはないよ。君ぐらいの年齢じゃ、吹かして悪いフリをしているか、君みたいに嫌うかのどっちかにしか思わないから、しょうがないけどね。タバコはね、恋人と一緒だよ」
男は人差し指と中指を立てて、タバコを吸う手付きをする。
「そんなロマンチックなものなの?」
「ロマンなんて無いよ。タバコを吸う人は、いつまでも思い出を忘れないでいられるんだ」
ぼくには男が何を言っているのか、理解出来なかった。
「女が買ってくれてるのさ」
「この部屋を?」
男は首を横に振った。
「俺の『生活』を」
「生活……?」
「普通、男が気に入った女を買うだろう? 妾とか愛人って言うのかな。それの逆だよ。俺は買ってもらえてるんだ」
「相手の、弱音でも握ってるの?」
「おいおい、人聞き悪いなぁ。そんなに俺に魅力がなさそうに見えるってかい?」
ぼくは黙ったまま男を見つめた。
「まぁ、いいさ。理由は知らないよ。君はレストランで食べたい理由を店員に説明してから、メニューを注文しないだろ? 自分で言うのも恥ずかしいけど……惚れ込んでるんだろ。元々知り合いではあったけど、俺自身は相手のことを何とも思っていなかったし、そもそも年齢が違い過ぎる」
玄関の履き物を見て、相手の年齢がぼくの叔父さんと同じぐらいだということには、すぐに想像がついた。
「それで……」
「あぁ、そうだった。君は、男に抱かれた経験は?」
ふるふると、ぼくは大きく首を横に振った。
「今、好きな人はいる?」
「いない……」
「俺に抱かれたいと思う?」
ぶんぶんと、首を思い切り横に振った。
「ならちょうどいい。実はさ、俺が君の世話係になりたいんだよ」
「……」
「君の家は大きいだろう? そこに一人で暮らしているなんて……仕方ない理由があるとは言え、叔父さんにその話を聞かせてもらったら、かわいそうに思ってしまって。ここでふしだらで自堕落な生活を続けるより、君みたいな将来性のある子を、見捨てたくないんだ」
ブラウンのコートを纏った男が訪ねた。ぼくは視線をトレーに向けたまま、ハンバーガーを手に取りながら答えた。
「若いよ」
「それは、見れば分かる。中学生かい?」
「違う。高校生」
制服のデザインに特徴が無く、学校が近くにないため、本当に勘違いしたのだろう。
男は無断で向かいの席に座った。ショルダーバッグを椅子にかけ、肘を机に乗せてぼくの顔を除く。顔を上げると、案外整った顔の青年が真っすぐな目を向けていた。
「口にケチャップついてるよ」
男は笑顔で指を指して言った。ぼくはすぐに紙ナプキンで拭いた。赤いシミがナプキンに滲んだ。
「友達はいないの?」
「必要ない」
「さびしくないのかい?」
「……分からない」
「彼氏は?」
「いらない……」
ぼくは作業的にハンバーガーを喉に通し、席を立った。男は驚いた様子もなく、ぼくの後に続いて店を出た。
「これから何処に行くの?」
「あなたには関係ない」
「はは、そうかな?」
男の軽い笑いが、背後から耳に入ってくるのが不快だった。
横断歩道の前で、ぼくは立ち止まる。男の気配はまだ死角から感じられる。
「君の叔父さんに頼まれていてね」
ぼくは反射的に彼に振り返った。両手をコートのポケットに突っ込んだまま、彼はいやらしい笑みを返した。
「今日は一段と寒いし、君にとって曜日はもちろん、クリスマスや正月なんかの行事も関係ないだろう。ただ変わらない毎日を過ごしている。だけど、そんな生活で満足してるのか? もうちょっと刺激が欲しいだろ」
「刺激なんて受けて、どうするの?」
車の過ぎる音が聞こえなくなる。代わりに人々が動き出す。ざわざわと、空気が揺れる。ぼくと男は立ち止まったまま、人々の流れを妨害する。
「少しは前を見ろ、てことだ」
「前は見てるよ。今までと変わらずに」
サラリーマンの体が肩に当たる。舌打ちをして横断歩道を渡っていく。
「そうか。だったら俺の必要は無いな」
男は背中を向けると、さっさとその場を去ろうとした。
「待って。あなた、叔父さんの……ゼミの人でしょ?」
男はすぐに立ち止まり、首を回して顔を向けて「ご名答」と答えた。
「いいよ。ついていく」
「素性が分かった途端に素直になるなんて、最近の子供はかしこいんだな」
男は手招きをして再び進んでいった。ぼくは彼の後についていった。信号は再び赤く照らされた。
都内も駅前や大通りは、そびえ立つ建物や派手な電飾の看板に囲まれているが、一つ脇道を抜ければ、雑居ビルが佇む灰色の町になってしまう。太陽が隠れ、体温を奪うこの季節には、ぴったりな光景だった。
男は、一階に駐車場のあるオフィスビルの中に入っていった。ポストにはどの部屋にも名前が書かれていない。ローカルなエレベーターは、6階へと案内した。
「アパートやマンションっていうのはね、本来ならプライベートなんて存在しないんだ」
「じゃあ、どういう場所なの?」
「このように、各階に部屋が数カ所に分けられているだろ? その部屋に誰が住み、どんな生活をしているかどうかは、その部屋に入ってみなきゃ分からない」
男は扉の前に立ち、ポケットから鍵を取り出した、非常用の螺旋階段のすぐ近くの部屋だった。
「だけれど、扉なんてあってないようなものだし、鍵なんてすぐに開けられる。隣の部屋との境界は、薄い壁一つしか無い。家族でも兄弟でもない他人が、ほんのすぐ近くに存在し、生活しているんだ」
彼はドアノブに鍵を差し込み、私の目を見て言った。
「もし隣の住人が、指名手配中の凶悪犯罪者だったらどうする? 俺はどうもしないな。ビビるだろうけど、別に気にしない。気になるんだったら、部屋を変えればいいだけの話さ」
「何が言いたいの?」
男は扉を開けた。金具の軋む音がビルの空間に響いた。
「つまり、狭い空間に自分一人だけの世界を作った気でいても、結局人間は群がって生きているのさ」
玄関に入ると、サンダルが二つと、ハイヒールの靴が並んでいた。ぼくは履き古したローファーを脱ぎ、揃えてから廊下を進んだ。
キッチン周りは、暗い中でも反射しているのが分かるくらい綺麗に磨かれていた。底の焦げた薬缶が、コンロの上に置かれていた。
部屋は六畳一間だが、ベッドと本棚くらいしかなく、余計な家具が無い分広く感じた。男は紺色のカーテンを開け、部屋の明かりをつけた。昼間なのに暗いのは、日当りの所為というよりも、今日の天気が原因のようだ。
「これでもキレイ好きでね」
「本当?」
「ほんとだよ。この部屋を見れば分かるだろう?」
「この部屋、住んでないでしょ?」
ぼくは床に腰を降ろし、ハンドバックを膝の上に置いた。
「……バレバレか」
「人のニオイがしないもん」
「ニオイ?」
ぼくはこくりと頷いた。彼は着ていたコートを畳み、ベッドの枕元に置いた。
「さては君、嫌煙家だな?」
「タバコなんて、赤ん坊のおしゃぶりのようなものでしょ」
「そんなことはないよ。君ぐらいの年齢じゃ、吹かして悪いフリをしているか、君みたいに嫌うかのどっちかにしか思わないから、しょうがないけどね。タバコはね、恋人と一緒だよ」
男は人差し指と中指を立てて、タバコを吸う手付きをする。
「そんなロマンチックなものなの?」
「ロマンなんて無いよ。タバコを吸う人は、いつまでも思い出を忘れないでいられるんだ」
ぼくには男が何を言っているのか、理解出来なかった。
「女が買ってくれてるのさ」
「この部屋を?」
男は首を横に振った。
「俺の『生活』を」
「生活……?」
「普通、男が気に入った女を買うだろう? 妾とか愛人って言うのかな。それの逆だよ。俺は買ってもらえてるんだ」
「相手の、弱音でも握ってるの?」
「おいおい、人聞き悪いなぁ。そんなに俺に魅力がなさそうに見えるってかい?」
ぼくは黙ったまま男を見つめた。
「まぁ、いいさ。理由は知らないよ。君はレストランで食べたい理由を店員に説明してから、メニューを注文しないだろ? 自分で言うのも恥ずかしいけど……惚れ込んでるんだろ。元々知り合いではあったけど、俺自身は相手のことを何とも思っていなかったし、そもそも年齢が違い過ぎる」
玄関の履き物を見て、相手の年齢がぼくの叔父さんと同じぐらいだということには、すぐに想像がついた。
「それで……」
「あぁ、そうだった。君は、男に抱かれた経験は?」
ふるふると、ぼくは大きく首を横に振った。
「今、好きな人はいる?」
「いない……」
「俺に抱かれたいと思う?」
ぶんぶんと、首を思い切り横に振った。
「ならちょうどいい。実はさ、俺が君の世話係になりたいんだよ」
「……」
「君の家は大きいだろう? そこに一人で暮らしているなんて……仕方ない理由があるとは言え、叔父さんにその話を聞かせてもらったら、かわいそうに思ってしまって。ここでふしだらで自堕落な生活を続けるより、君みたいな将来性のある子を、見捨てたくないんだ」