赤いしるし
正月を迎え、叔父さんの家で行われる親戚の集まりに呼ばれた。大人達は毎年同じ挨拶を交わし、子供達は毎年お年玉をせびりに大人たちに群がる。ぼくはテーブルの隅で、豪華に盛られた夕飯を口に運んだ。ぼくの事情や性格を知らない人はいないので、無理に相手をしようとする人はいない。料理を運んだり、手を洗いに行くついでに声をかける程度だ。
ぼくがここにいる意味はない。それはみんなも同じように思っている。扱いに困っているから、建前としてこの場に呼んでいるだけなのだ。誰も思い出したくないのだ。ぼくではなく、ぼくの両親の存在を。
大人たちがお酒に酔い始め、子供達があくびをかき始めてきたので、ぼくは静かに席を立ち、外に出た。空気が急に透き通り、鼓膜に振動が伝わらなくなった。
「お前、帰るのか」
庭から声が聞こえた。振り向くと、叔父さんの長男がスポーツウェア姿でこちらに向かって来た。
「あいかわらず無愛想なままなんだな。それともかわいそうな自分の境遇に、未だに浸ってるのか」
「子どもね」
「お前も変わらないだろ? 知ってるよ。お前がカッターを持ち歩いてて、それで自分の身体を傷つけてるってこと。親父が心配してたよ。俺が部活で倒れたって、大丈夫か、の一言もくれない癖に」
ぼくは黙って前に進む。彼は足音をワザと大きく立てながら後についてくる。
「学校にも行かなくて、カネは俺の親父からもらって、死んだ親が一括で買ったデカい家を残していってくれてよ。贅沢にもほどがあるだろ」
「……それで?」
「それで、って……そんな環境にいるのに、お前は何をやってるんだ? どうして生きてるんだよ」
ぼくは立ち止まって彼に目を向けた。月光がぼくの背中を照らす。彼は立ち止まったまま、ぼくを睨みつける。
「あなたは、真っ当な人間なのね」
「馬鹿にしてるのか?」
「ううん、言葉通りよ。あなたは作られたルールの中で騒ぎながらも、ちゃんと従っている。ルールに逆らっているように見える私に、フェンス越しから叫んでいるの」
彼は目の前まで近付き、ぼくの胸ぐらを掴んだ。眉間にしわを寄せ、握られた拳は震えている。
「俺が人を殺すとしたら、お前を誰よりも先に殺す」
「それってつまり、今のあなたは私を殺せないのね」
そう告げると、彼は歯を食いしばり、ぼくの頬を思い切り殴り飛ばした。ぼくはそのまま尻餅をついた。冷えたアスファルトは、ぼくの体を受け止めてくれなかった。
彼は無言のままぼくを凝視し、顔を背けると、すぐに立ち去っていった。唇を手の甲で拭うと、赤い線が引かれた。口が切れたようだ。
青い闇に彼は消えていき、のそりと立ち上がったぼくは白い光に向かった。
ぼくの両親は、自らの命を犠牲にしてルールを破った。そして二人が作った新しいルールの元で、ぼくは生きている。
『本来なら女の子はね、一定の周期で血を外に流すのよ。あなたは女の子だけれど、血を流さないで済む身体で産まれてきた代わりに、子供を作れない代償を背負ってるの。でもね、それは決して悪いことじゃないわ。だって、あなたの中には永遠に澄んだ血が流れるのだから……』
母はぼくに向けてよく言っていた。
『もし、ぼくとお母さんがある日突然いなくなってしまうときがあっても、君はここから出ない方がいい。ぼくらは君を立派な大人にしたいのでも、独り立ちして社会に出したいわけでもない。どうか、傷を付けられないまま生きていって欲しい。心や表面上の傷じゃない。君という存在や、君の生きている環境に。それだけが、ぼくらの望みなんだよ』
小学校の頃に飼っていた小鳥がカゴから逃げ出した時、父はそう言って慰めてくれた。
翌日、銀行の口座に、叔父さんからお金が振り込まれていた。一定の金額をいつも月の始めにくれるのだが、今月は少しだけ多く入れられていた。
朝の光を浴びながら、ぼくは冷水の浴槽に入り、膝を抱えて丸くなる。「お風呂には、ちゃんと肩まで浸かって入りなさい」という母の声が、空から聞こえる。
腕を真っすぐ延ばす。ゆらゆらと揺れる水の波紋に、赤いしるしが浮かび上がった。