舞うが如く 第五章 16~18
会津藩主の松平容保が、軍内に開城を伝えます。
家老の梶原平馬と内藤介右衛門を先案内に、
容保は、世子喜徳 ・家老萱野権兵衛を従えて追手門前、甲賀町通りの
路上にもうけられた、降伏式場に臨みました。
政府軍からは軍監・中村半次郎、
軍曹・山県小太郎らが諸藩の兵を率い、
錦旗を立てて、式場に入りました。
容保は、中村半次郎に「謝罪書」を手渡します。
権兵衛は「戦争責任は家臣にある。藩主父子には寛大な処置を」
と重臣らが連名で記した「嘆願書を提出して、
式は無事に終了をしました。
容保は城に帰り、重臣・兵士らに別れを告げます。
戦死者を葬った城内の空井戸・二ノ丸の墓地に花を捧げたあと、
薩摩・土佐の二小隊に護られて、北追手門を出て、
滝沢村の妙国寺へと蟄居(ちっきょ)をしました。
城中にあった兵士は、翌九月二十三日、
米沢藩士に護られて、猪苗代に謹慎のための移動をします。
五百余人の病人や負傷者は、城内から青木村に移しての治療になりました。
婦女や老幼、 城外にあって降伏した藩士たち千七百余名は、
塩川と喜多方へ立ち退かされてしまいます。
幕末を駆け抜けた東北の勇・「会津」は、ついに
ここに音をたてて崩壊をしてしまいました。
作品名:舞うが如く 第五章 16~18 作家名:落合順平