無効力恋愛
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短くホイッスルが鳴った。
薄水色の空に、刷毛で刷いたような雲が伸びている。七月初旬。スタートラインに並んだ白宮十貴(しろみやトキ)は、視線の先で陽炎が立っているのに気付いた。200Mインターバル。ゴールラインが揺らぐ。
もう一度ホイッスルが鳴る。位置について。
スタートダッシュで半歩、出遅れる。ほぼ並列で四人、若干前に一人。視界の端に僅かに見える誰かの肩。腕。それが許せない。……もっと前だ。前。前。前。もっと先へ、もっと速く!
ぐん、と何かに押し出されるようにして、視界が開ける。
もっと速く、速く、速く。
混戦を頭一つ抜けて、コーナーに差し掛かる。長い脚が蹴りだす歩幅の広さと、中盤以降の滑らかな伸びが、十貴の武器だ。スタート時の遅れを挽回する。見開いた大きな眸に、もう他人の影は入らない。独走態勢。後続との差を広げながらコーナーを廻り、ラストの直線。
もっと速く、速く、遠く―――。
流れるように加速する。器官をすり抜ける、埃まじりの風が甘い。瞬間的に世界がハレーションを起こす。何にも縛られることがない、煩うことがない、重力からさえ自由だと、錯覚する一瞬。
なんて甘い―――孤独。
空気抵抗が弱まり、脚が地に還る。大きく息をついた十貴の背に、チームメイトたちが走りこんできた。
タイムキーパーの賞賛にガッツポーズで応え、ゆっくりコースから外れた。皮膚に触れる風が生温い。視線を下すと、白い陽射しがグラウンドの土に濃い影を落していた。その明暗の差に目が眩む。
競って負ければ泥だ。その苦さも知っていた。けれどこんな瞬間は何者にも換えがたい。時間にすれば0.1秒にも満たない悦楽。
上がった息を整えながら十貴は空を仰いだ。
「……あいつの飛(ト)び方、YESだね」
突然耳に飛び込んできた他人の声に、英理人(はなぶさリヒト)はぎょっとした。教室には誰もいないはずだった。三号館、二階、第二視聴覚室の窓からはグラウンドがよく見える。
両肘を窓枠に預けたまま、首だけ回して声の主を確かめる。声は理人の真横から聞こえた。半間ほど離れた場所で、理人と同じように窓の外を眺めているのは、理人と同じ映像部員の武辺だった。
第二視聴覚室は映像部の巣である。部員数は総勢五名、クラブ設立に必要な最低人数だ。全員が二年で、内二人は運動部との掛け持ちである。発足してからまだ一年経たない。問答無用の弱小文化部だった。
とはいえ、部室に理人以外の部員が現れるのは当然のことで、気付かない理人に問題がある。理人は顔には出さず己を恥じた。何に気を取られていたというのか。それが自明なだけに。
武辺は掛け持ち部員の一人だ。部室に顔を出すのは一週間ぶりだろう。他の部員はまだ来ない。視線に気付いたのか、武辺は理人を振り返って言った。
「えらく気持ち良さそうなカオしてる」
「……」
無論それは理人の無表情に対しての言葉ではない。理人は黙って目を逸らした。窓の外は明るく、夏の空は澄んで高かった。校舎の影はグラウンドにまでは届かず、遮るもののない陽射しが、じりじり砂を灼いている。
理人の眼下で、汗を拭いながらグラウンドを横断していた人影が、不意に顔を上げた。白い額に暗褐色の髪が張り付いている。最初空に向けられた視線は、一周して校舎二階の理人と武辺を見つけたようだった。
「英(エイ)―――、」
破顔一笑。大きく手を振りながら、理人を呼ぶ人影は、十貴だ。
理人を「エイ」と呼び始めたのは、小学生の頃の十貴だった。苗字を音読みにして、エイ。「はなぶさ」の読みは、子供には少し難しい。それ故、子供の頃はこれが理人の愛称の主流だった。だが、いつからか理人を渾名で呼ぶ友人達は「ぶっさん」という呼称を採用するようになった。誰が言いだしたのかは判らない。高校に入って以降、理人を「エイ」と呼ぶのは最早、十貴だけである。十貴は「さん付けがムカつく」という理由で、理人の新たな愛称を否定していた。
十貴に手を振り返しながら、理人は口を開いた。
言葉が音にならなかったのは、十貴が先に声をあげた所為だった。
「武辺―――、」
理人は空気の固まりを飲み込んで、開きかけの口を閉じた。バスケ部は? と十貴が続ける。武辺はバスケ部と映像部を兼部している。十貴は陸上部と映像部。
「休み――」そう答えてから、
「白宮あ!」
心なし、身を乗り出して武辺が叫ぶ。
「超ーYESだ、ぜ!」
「えええ? 意味わかんねええ!」
笑いながら、もう一度片手を挙げて十貴は練習に戻った。外の光の中、十貴の輪郭はハレーションを起こし、白くぼやけた。
運動部にしては若干薄い背中を見送りながら、理人は自分が言いかけた言葉は何だったのかと考える。別に言いたいことなど無かった。ただ名前を呼び返すくらいしかなかった。にも拘らず、出損ねた声は形もないまま、理人の舌に苦味を残した。
「後悔でもしてるのか」
武辺が言った。
「……何を」
語気が荒くなったように思う。目的語を限定しない武辺の言葉は、ストレートに理人を突いた。
「お前も走ってただろう。中学までは」
「……あんたがそれを言うのか」
険のある声音は無様さのようで、向けられた武辺より、発した理人自身を傷つけた。武辺は他人の声の陰影になど気付かない風で、軽く肩を竦めて見せただけだった。
「俺はチームプレイが好きだから、元々バスケのが合ってたんだろ。まあ、逃げたと言われたら否定しないね。白宮、速かったし。大会で最初見たときビックリした。コイツと走りたいと思ったね。リレーチーム、組めたら強そうだろ。……でもランナーは究極、独りだ。少なくとも俺はそう感じた」
言いながら、何かを思い出したように笑う。
「……って白宮にも言ったら、あいつ『そんなもんなんだってそうだろ』って言ったよ。怒ってた。ありがたい奴だね」
「……速かったから、武辺くん」
「英も速かったよ。去年の体育祭でも、なんで運動部入ってないんだって、みんな言ってたぜ」
理人は薄く笑った。大層な理由などあろう筈がない。逃げたなどと口に出せる武辺が、いっそ清々しかった。結局、そのことは武辺のなかで、負い目になる類のことではないのだ。……十貴のライバルだったくせに。
尤も、心がどうあれ理人に武辺をどうこう言う資格はなかった。
―――逃げたと言うなら、理人こそが逃げたのだ。
「……体育会系は性格が向かないんで」
話を切り上げようと、冗談半分、本気半分の言葉を口にする。
「ぶっさんネクラだもんなあ」
混ぜっ返したのは、武辺ではなかった。振り向くといつの間にか、教卓の上にカップ麺を置いて出来上がりを待つジャージ姿の男がいる。
「男二人で窓際に佇む図。キーモーエー」
「モエ?」
「んなわきゃない。調子のんな」
「……意味がわからない」
「武辺ほどじゃねえよ」
安達だった。
スポーツマンとはほど遠い性質(たち)だが、常時ジャージを着用している。上下ともに何セットか持っているらしく、今日履いているパンツは、一見ハーフに見えるが、実は裾を鋏で切っただけの代物だ。卒業生の兄弟がいるため、指定ジャージに不自由しないらしい。
短くホイッスルが鳴った。
薄水色の空に、刷毛で刷いたような雲が伸びている。七月初旬。スタートラインに並んだ白宮十貴(しろみやトキ)は、視線の先で陽炎が立っているのに気付いた。200Mインターバル。ゴールラインが揺らぐ。
もう一度ホイッスルが鳴る。位置について。
スタートダッシュで半歩、出遅れる。ほぼ並列で四人、若干前に一人。視界の端に僅かに見える誰かの肩。腕。それが許せない。……もっと前だ。前。前。前。もっと先へ、もっと速く!
ぐん、と何かに押し出されるようにして、視界が開ける。
もっと速く、速く、速く。
混戦を頭一つ抜けて、コーナーに差し掛かる。長い脚が蹴りだす歩幅の広さと、中盤以降の滑らかな伸びが、十貴の武器だ。スタート時の遅れを挽回する。見開いた大きな眸に、もう他人の影は入らない。独走態勢。後続との差を広げながらコーナーを廻り、ラストの直線。
もっと速く、速く、遠く―――。
流れるように加速する。器官をすり抜ける、埃まじりの風が甘い。瞬間的に世界がハレーションを起こす。何にも縛られることがない、煩うことがない、重力からさえ自由だと、錯覚する一瞬。
なんて甘い―――孤独。
空気抵抗が弱まり、脚が地に還る。大きく息をついた十貴の背に、チームメイトたちが走りこんできた。
タイムキーパーの賞賛にガッツポーズで応え、ゆっくりコースから外れた。皮膚に触れる風が生温い。視線を下すと、白い陽射しがグラウンドの土に濃い影を落していた。その明暗の差に目が眩む。
競って負ければ泥だ。その苦さも知っていた。けれどこんな瞬間は何者にも換えがたい。時間にすれば0.1秒にも満たない悦楽。
上がった息を整えながら十貴は空を仰いだ。
「……あいつの飛(ト)び方、YESだね」
突然耳に飛び込んできた他人の声に、英理人(はなぶさリヒト)はぎょっとした。教室には誰もいないはずだった。三号館、二階、第二視聴覚室の窓からはグラウンドがよく見える。
両肘を窓枠に預けたまま、首だけ回して声の主を確かめる。声は理人の真横から聞こえた。半間ほど離れた場所で、理人と同じように窓の外を眺めているのは、理人と同じ映像部員の武辺だった。
第二視聴覚室は映像部の巣である。部員数は総勢五名、クラブ設立に必要な最低人数だ。全員が二年で、内二人は運動部との掛け持ちである。発足してからまだ一年経たない。問答無用の弱小文化部だった。
とはいえ、部室に理人以外の部員が現れるのは当然のことで、気付かない理人に問題がある。理人は顔には出さず己を恥じた。何に気を取られていたというのか。それが自明なだけに。
武辺は掛け持ち部員の一人だ。部室に顔を出すのは一週間ぶりだろう。他の部員はまだ来ない。視線に気付いたのか、武辺は理人を振り返って言った。
「えらく気持ち良さそうなカオしてる」
「……」
無論それは理人の無表情に対しての言葉ではない。理人は黙って目を逸らした。窓の外は明るく、夏の空は澄んで高かった。校舎の影はグラウンドにまでは届かず、遮るもののない陽射しが、じりじり砂を灼いている。
理人の眼下で、汗を拭いながらグラウンドを横断していた人影が、不意に顔を上げた。白い額に暗褐色の髪が張り付いている。最初空に向けられた視線は、一周して校舎二階の理人と武辺を見つけたようだった。
「英(エイ)―――、」
破顔一笑。大きく手を振りながら、理人を呼ぶ人影は、十貴だ。
理人を「エイ」と呼び始めたのは、小学生の頃の十貴だった。苗字を音読みにして、エイ。「はなぶさ」の読みは、子供には少し難しい。それ故、子供の頃はこれが理人の愛称の主流だった。だが、いつからか理人を渾名で呼ぶ友人達は「ぶっさん」という呼称を採用するようになった。誰が言いだしたのかは判らない。高校に入って以降、理人を「エイ」と呼ぶのは最早、十貴だけである。十貴は「さん付けがムカつく」という理由で、理人の新たな愛称を否定していた。
十貴に手を振り返しながら、理人は口を開いた。
言葉が音にならなかったのは、十貴が先に声をあげた所為だった。
「武辺―――、」
理人は空気の固まりを飲み込んで、開きかけの口を閉じた。バスケ部は? と十貴が続ける。武辺はバスケ部と映像部を兼部している。十貴は陸上部と映像部。
「休み――」そう答えてから、
「白宮あ!」
心なし、身を乗り出して武辺が叫ぶ。
「超ーYESだ、ぜ!」
「えええ? 意味わかんねええ!」
笑いながら、もう一度片手を挙げて十貴は練習に戻った。外の光の中、十貴の輪郭はハレーションを起こし、白くぼやけた。
運動部にしては若干薄い背中を見送りながら、理人は自分が言いかけた言葉は何だったのかと考える。別に言いたいことなど無かった。ただ名前を呼び返すくらいしかなかった。にも拘らず、出損ねた声は形もないまま、理人の舌に苦味を残した。
「後悔でもしてるのか」
武辺が言った。
「……何を」
語気が荒くなったように思う。目的語を限定しない武辺の言葉は、ストレートに理人を突いた。
「お前も走ってただろう。中学までは」
「……あんたがそれを言うのか」
険のある声音は無様さのようで、向けられた武辺より、発した理人自身を傷つけた。武辺は他人の声の陰影になど気付かない風で、軽く肩を竦めて見せただけだった。
「俺はチームプレイが好きだから、元々バスケのが合ってたんだろ。まあ、逃げたと言われたら否定しないね。白宮、速かったし。大会で最初見たときビックリした。コイツと走りたいと思ったね。リレーチーム、組めたら強そうだろ。……でもランナーは究極、独りだ。少なくとも俺はそう感じた」
言いながら、何かを思い出したように笑う。
「……って白宮にも言ったら、あいつ『そんなもんなんだってそうだろ』って言ったよ。怒ってた。ありがたい奴だね」
「……速かったから、武辺くん」
「英も速かったよ。去年の体育祭でも、なんで運動部入ってないんだって、みんな言ってたぜ」
理人は薄く笑った。大層な理由などあろう筈がない。逃げたなどと口に出せる武辺が、いっそ清々しかった。結局、そのことは武辺のなかで、負い目になる類のことではないのだ。……十貴のライバルだったくせに。
尤も、心がどうあれ理人に武辺をどうこう言う資格はなかった。
―――逃げたと言うなら、理人こそが逃げたのだ。
「……体育会系は性格が向かないんで」
話を切り上げようと、冗談半分、本気半分の言葉を口にする。
「ぶっさんネクラだもんなあ」
混ぜっ返したのは、武辺ではなかった。振り向くといつの間にか、教卓の上にカップ麺を置いて出来上がりを待つジャージ姿の男がいる。
「男二人で窓際に佇む図。キーモーエー」
「モエ?」
「んなわきゃない。調子のんな」
「……意味がわからない」
「武辺ほどじゃねえよ」
安達だった。
スポーツマンとはほど遠い性質(たち)だが、常時ジャージを着用している。上下ともに何セットか持っているらしく、今日履いているパンツは、一見ハーフに見えるが、実は裾を鋏で切っただけの代物だ。卒業生の兄弟がいるため、指定ジャージに不自由しないらしい。