ダイヤモンド
一応、雇用主とアルバイトの学生という関係だから、ある程度の世辞は含まれているだろうと思いつつも、スミオはYの鋭い洞察力にある多少の恐怖すら感じた。今日、家を出てくる際に、仏壇と裏庭に眠っているミケに線香をあげて頼んできたことまで見られていたのかと不安になるほどであった。
「幼い女の子の前に、数億のダイヤと玩具の指輪を見せたらどうするでしょうか? 市場価値から言えば、ティファニーに飾ってある宝石と、祭りの屋台で売っている指輪では比較するまでもありません。でも、そのガラスの指輪が、大好きなお母さんに買って貰ったものだったらどうでしょうか? 女の子は迷わずガラスの指輪を取ると思います。なぜなら、女の子にとって、ダイヤもガラスも同じ石にしか見えないからです。ガラスの指輪を選んだのは、お母さんから買って貰った指輪だからです。屋台の電球にキラキラ輝く指輪を、大好きな人が買ってくれた。それだけで彼女にとっては、ダイヤよりも価値のある、文字通り宝石なんです。僕の母親だって、タレントや女優じゃありませんし、美人でもない。ただの中年のオバサンです。傍から見たら、特に注目するに値しないでしょう。でも、僕にとっては大切な宝石です。森田さんにとってのクロも、宝石のはずです。諦めないでください。クロもきっと待ってますから、頑張りましょうよ」
スミオは、ずっと下を向いて聞いていた。Yは、もしかしたら涙ぐんでいたのかも知れなかった。
スミオはYの言葉に感謝はしていたものの、その言葉に涙を流すような純粋な気持ちなど、人生の風雨に晒されてとっくに消え去っていた。
四
ホームセンター「コメリ」は、国道五十一号線と県道「下総神崎街道」がぶつかるT字路に面している。北側に進むと消防分遣所があって、そのあたりの光を靄が包んで、巨大な蚊柱のように見えた。国道の南側に位置する「コメリ」の資材館の横から、砂利道を三十メートルほど入ったところに、農家のビニールハウスが数棟並んでいる。トンネル栽培に使うと思われるパイプやマイカー線の束が、その入口付近に無造作に積んであった。その少し向こうの、暗い街路灯に、大きな羽をもった蛾が数匹群がっていた。蛾は、まるでその灯りが昼間の入り口と勘違いしているように幾度もパタパタとぶつかり、金属じみた燐粉を落としていた。
張り替えてから何年も経過して、天井付近が日に焼けて黒ずんだハウスの端に、野良猫のトラを閉じ込めたケージを置いた。Yの発案だった。クロは、作業場に出入りしていたトラを覚えているはずだ、ということであった。ケージの中のトラに、Yは何か頼むように話しかけていた。スミオの目には、その光景が痛々しく映った。家を出る前に、ミケに線香をあげて拝んだ自分が思い出された。万策尽きた者が、無意識に取る憐れな行為だと、そう思った。しかし同時に、こうまで必死になってくれるYの後ろ姿が愛しくもあった。
“強がってはいても、所詮子供なのだ。もしかしたら、自分のところに来たのも日常から逃げ隠れるためだったのかもしれない。自分に父性のような感情すら抱いていたのではないか”
スミオは、自分に都合のいい妄想を巡らせると、その背中を抱き締めてやりたくもなったが、我に帰って苦笑した。
「じゃあ、俺は墓地の方からやってみるよ」
スミオは、地理に疎いYに国道沿いから「コメリ」周辺の捜索を任せた。
月はなかったが、懐中電燈は切ったままだ。スミオにとっては何度も歩いて知り尽くしたコースであり、急に灯りを見た臆病なクロが、逆に逃げ出してしまうのを予防する意味もあった。
「もう、こんなもんだろう」
スミオは、クロの名前を呼びながら三十分ほど同じ道のりを周回して、出発点に向かって歩き始めた。
“今夜は靄も出ていて条件も悪い。盆過ぎにでも一人で探してみるよ”
Yにそう言って、スミオは一連の捜索に終止符を打つつもりでいた。
西南にあたる成田空港方面から、飛行機が着陸する際の逆噴射の轟音が、ぬるい空気の塊になって流れて生きて、東の里山の中に消えた。国道からも、時折トラックのタイヤでアスファルトを叩く音がかすかに届いてはいた。星はあったが、粒として確認できる明るさではなかった。砂利道を歩くスミオの足音に驚いたコオロギや鈴虫が鳴くのをやめた。少し足を速めて戻りかけた時、トラがいる方から、それまで耳にしたことのない不思議な声が聞こえてきた。断続的ではあるが、その声はオペラ歌手のような、甘いロングトーンであった。ケージが見える位置までスミオが戻ると、声の主は確かにトラであった。その声は繁殖期の、メスを求める声でも「ここから出してくれ」と抗議する泣き方でもなかった。ただひたすらに誰かを呼び続けるもの悲しい声に聞こえた。トラの呼ぶ方向に目を向けると、遠い電燈の逆光の中に、Yが立っていた。その胸の中には、チビ猫のクロがしっかりと抱かれていた。靄で足元が見えなかったので、スミオにはまるでYが雲の上をゆっくりと歩いて来るかのように見えた。それを見るとスミオは、動けなくなっていた。歩きたくても、精神と肉体が切り離されたかのように上手くいかなかった。
目の前の光景を、現実の出来事として受け入れることができない、できる筈もなかった。“トラを担ぎ出したところで、いかほどの効果があるものか。猫の嗅覚は優れているから、仲間がいれば感知して出てくるのではないか、という理屈も分からなくはないが、ではなぜオレが探しに来た時に出てこなかったのだ。出てこないということは、もうここにはいないか、戻るつもりが無いということだろう。もう結果は決まっているのだ”
スミオは、口に出していなかった考えを再確認してみた。ただ、目の前にある光景は、スミオのこれまでの人生には一度もなかった事例であり、納得しようにもできなかったので、「どうせこれも、白昼夢の続きに違いない」と思うことにした。
“朝になればYもクロも全て消えてしまい、今まで通りの、自分に相応しい毎日だけが残っているに違いない”
上を見ると、さっきまで光も微かにしか確認できなかった星が、今は刺すような明るさで輝き始めていた。そして、その星たちは、流れていた。目の錯覚ではなく、確かに、ゆっくりと、光る氷河になって流れていた。あらゆる星座が、スミオに語りかけていた。母の手に引かれた幼い日のスミオが、銀の荷馬車の後ろをトボトボと歩いて行くのが見えた。スミオは、必死で二人に向かって叫んだが、音にはならなかった。そして、それらも他の星たちと一緒に西の地平に落ちていった。
国道からの騒音はもう聞こえてこなかった。代わりに畑や道端、里山から虫たちの大合唱が鳴り響いた。
いつの間にか地べたに座り込んでいたスミオは、気が付くと涙を流していた。悲しくも悔しくもないのに涙が出る理由を、シモは知らなかった。親が死んだ時も、たった一度の見合いが破談になった時も、スミオは決して涙を見せずにここまで耐えてきたからだった。