ダイヤモンド
“それに、今回の件について自分がミスを犯したことは逃れようのない事実ではあるものの、故意に逃がしたわけではない。そもそも、あの猫は捨てられて肺炎を患いながら死を待つのみの天命だったのではなかったか? それを拾ってやって、抗生物質入りのシロップを飲ませて命を助けたのは俺ではないか! ”
スミオはもう自分のミスさえも意地の悪い運命のせいにして逃げ出したい気持ちになっていた。
きのう人参消毒に使った動噴(どうふん)のタンクを水洗いしてから、スミオはポテカルゴの燃料を入れた。最近燃費が悪いと思っていたら、燃料タンクとキャブレターの間のパイプに亀裂が入っていて、滲んでは揮発する、を繰り返していた。これを続けていたのだから、確かに燃費も悪くなる筈だった。樹脂パイプの補強をかねてビニールテープを巻こうと思い付き、スミオはテープがあるだろう作業場のたなを見たが、そこにはなかった。たぶん、あのチビ猫が歩き回って蹴落としでもしたのだろうと推測し、下方に目を凝らすと案の定、それはトラクターのロータリー歯の下に転がっていた。スミオが腕を伸ばし、三点リンクの間からテープを掴んで顔を上げると、Yが立っていた。
ポテカルゴのコンベアー回転部にグリスアップをしながら、スミオはYに事の顛末(てんまつ)と、大切なものを失った自分の苦悩を漏らした。スミオの芝居がかった言い訳を、Yは目を閉じたまま黙って聞いていた。しかし、スミオが捜索断念を口にすると、突然早口で喋り始めた。途中、外国語か専門用語らしき意味不明の単語が混じって完全には理解できなかったが、要約すると次のように言ったとスミオは解釈した。
「四日間ならまだ歩けなくなるほど衰弱はしていないだろう。犬と違い、猫は自ら家に帰るような積極的行動は取らずに暗い所でじっとしている内向型であるから、行動範囲は限定されている。ましてやチビクロはまだ生後六か月足らずなので、人間の裏をかいて逃げ回るとは考えにくい。よって、現在も件のホームセンター周辺に必ず隠れている」
だから、あきらめずに今晩一緒に探しに行こう、とさえ言ってくれた。
Yの申し出は嬉しかったものの、スミオはあまり気乗りがしなかった。なぜならスミオの中ではもう終わったこととして認識されていたからだった。スミオはこれが自分の人生の必定であるということを身に染みて知っていた。およそ、彼の人生で幸せという積み木が完成したことなどこれまで一度もなかった。
白い砂浜に立っていると、波に乗ってキレイなガラス瓶が沖の方から流れてくる。中には、見たこともない珍しいビーズ玉や、キラキラ輝く宝石が入っていて、自分の目の前に来てそれは止まっている。
しばらくは眺めているだけだったが、意を決してそのガラス瓶を掴もうと手を伸ばす。指が触れた瞬間、波が瓶を呑みこんで何処かへ攫(さら)って行ってしまう。
気がつけば白浜の海岸は、草むらのドブ川に戻ってしまっている。
スミオはこれまで、繰り返しこの教科書通りの不幸の輪の中でもがいてきた。今回もまた、それがまた巡ってきただけ。そう思うと納得がいくような気がして、どこか安堵のような気持ちすら感じていた。
国道沿いにある「黒美館(こくびかん)」という喫茶店でYと待ち合わせた。ホームセンターやJAの道の駅等の照明が消える閉店時間までの間、作戦会議を兼ねてゆっくりしようとスミオの方からYを誘ったのだった。
スミオがドアを押すと、店内にはバッハのチェンバロ曲が静かに流れていた。蝋燭を灯したアンティーク調のテーブルがいくつか並んでいて、レンガの壁に古いものと思われる西洋画がかけてあった。スミオはYを探した。
「森田さん、コーヒー苦手でしたよね。アイスティー頼んでおきました」
背後の、ほの暗いテーブルからYの声がした。
「本当に申し訳ないね。こんな遠くまで、たかが猫ごときの為に……。ありがとうね、まったく面目ない! 」
「何をおっしゃるんですか! クロは家族じゃないですか。僕も同じ気持ちでいます」
「いやあ……。なんか落ち着かないなぁ。こんなとこ入ったの初めてだし……。Y君みたいな若い人と喫茶店だなんて、オレの方はクロに感謝したい気持ちだけど、そっちからしたら、こんなしょぼくれの汚い中年オヤジと一緒では迷惑もいいとこだよね。本当に申し訳ない! 」
スミオは、そう言いながらもYに目を合わせられずにいた。
「森田さん! なんで、そんなにご自分を卑下なさるんですか! キレイだとか汚いだとか、一体誰が決めるんですか! 」
Yのハスキーがかった声は、音量が小さくても鋭く通るスピーカーのようだった。
「世間が言っている、キレイだとか一流だとか、一部の考えが偏った人たちが創り上げた思い込みだと思いますよ」
スミオは、この時点でYが複雑な事情の家庭の出でも、受験ノイローゼに苛まれている引きこもりのどちらでもないことを改めて確信した。そして、その書生じみた綺麗事こそが、「キレイ」な世界にいる人間の常套句だと反論したかったが、Yの予想外の反撃に遭って断念してしまった。
「では、三ツ星レストランのフランス料理は一流で、下町の大衆食堂のラーメンは三流なんですか! 着飾って、シャンデリアの下でワイン片手に食べる料理だって、口に入って唾液と混ざれば汚物と一緒ですよ。数時間後にはトイレに流されるだけじゃないですか。フランス料理もラーメンも、本質は一緒です。所詮、人間の作ったものじゃないですか。食べた時に、美味しいと思えればそれが一流なんです。それ以外の定義なんて、ある筈がありません」
Yの、昼間との豹変ぶりは、やはり宗教の関係者か、そうでないなら酒でも入っているのかと疑いたくなるほどであった。
「あのマリーゴールド畑を最初に見た時の感動は、今でも忘れません。朝も晩も、いつも通って見てたんです。どんな絵画も敵わない色彩のセンスを感じました。一体どんな人が、どんな発想で、このキャンパスに、こんなに鮮やかな絵具を撒いたんだろうって。ずっと知りたかったんです」
春のトンネル大根に根腐れ病が入った。そのため、九月の冬大根の時期まで「畑なおし」と「草かくし」の意味もあって、スミオはマリーゴールドの種を県道沿いの畑に撒いていたのだった。種を買った時、種苗店の店先にサルビアの苗がポットに入って並んでいた。そのポットでは収まりきらないほど育ち過ぎたそれは通常の半値で売られていたので、スミオはついでに、それらを全部買った。意識したわけではなかったが、県道と畑の境界を縁どるように植えたサルビアの赤と、畑のマリーゴールドの黄が空のブルーに映えて、実に華やかだった。週末などは散歩の家族連れや、通りかかった車から携帯で撮影しているのをスミオも見かけたことがあった。
「それに、森田さんが本当はクロが今でも大好きなことくらい、わかってますから。クロがいなくなって、どれだけ辛い思いをしてるかは、その顔を見たら充分伝わってきます」