ダイヤモンド
Yはすでにスミオの目の前にいた。神が創ったとしか思えない、黄金のバランスに支えられた小さな顔は、子供のように涙を流すスミオを、上からじっと見つめていた。その目は、勝ち誇っているような眼ではなく、すべてを見通しているものだけが持つ、慈悲の目であった。クロは、Yの胸に自分の頭を何度もぶつけては、首を横に振って「なんで置き去りにしたんだ。もっと早く向けに来い」と抗議するように甘えていた。
Yは、クロを抱いたまま、遠くを見つめて微笑するだけであった。スミオは、Yと聖母像がだぶって見えた。幻でも盲想でもないと、スミオは確信した。なぜなら、スミオの目の前で、確定していた運命を巻き戻して見せたのだから。
里山の下の田んぼから聞こえてくるカエルたちの歌声と、無数の小さな虫たちの大合唱が最高潮に達した時、スミオはYの足元にしがみついて号泣した。何か、懐かしいものに包まれている気がした。十月も半ばを過ぎると、南風より北風んお割合が多くなってきた。マリーゴールドを、ロータリーで潰してから播いた青首大根が、そろそろ出荷時期を迎えていた。母屋の西側にある銀杏の木の先端部分から、風もないのに葉が数枚落ちて、それが数を増しながら落下していき、盛りを過ぎたコスモスの周りの地面を黄色く染めた。
午前中、スミオが洗っておいた大根に、まだ高い西日が当たっていて、暗い作業場の隅々まで明るく照らしている。遅い昼食を済ませたスミオは、座布団を二つに折った枕を敷いて縁側に横になり、雨がにじんだ廊下の天井板を見ながら、ここまでの出来事をぼんやりと振り返っていた。
結局、あの夜以来Yは姿を見せなくなった。盆を過ぎれば学校も忙しくなるだろうし、夜に出かけたことで親を心配させたのかもしれない。当然だ、とスミオは思った。ただ、あの夜に至るまでの数週間の出来事は、本当にただの偶然だったのだろうかと自問すると、簡単に答えを出せないでいた。
“もしかしたら、死んだミケがYの体を借りて「猫の恩返し」でもしに来たのだろうか。と、するとYはオレを覚えていないのだろうか。或いは、小学二年の時に死んだ母親が、息子の惨めな暮らしぶりを心配して「しっかりしろ! 」と小言を言いに来たのか”
「回りくどいし、出てくるのが遅いんだよ! 」
スミオは、何十年も夢でいいから会いに来て欲しい、と願い続けていたのに一度も姿を現さなかった母親に憤りを覚えていた。
もし母親があの世から会いに来たら、今度は「一緒に暮らそう」と頼んでみるつもりでいた。もしも同じところには戻ってくれないなら、二人して猫の親子になって、花でも見ながらそよ風の中を歩いていこう、と提案するつもりでもいた。
“ネコの神様が渋ったら、クロとその母猫繋ぎを取らせればいい。そのぐらいの化しは今回、十分作ったはずだ……”
いつの間にかスミオは小さな寝息を立てて眠りに落ちていた。
サザンカの花が、数輪咲き始めていた。微かな風が、庭から縁側に上がって、仏壇のほうに抜けて行った。スミオの横にいたクロが、その気配を感じて片方の耳をピクンと動かし、同じ方の目を少しだけ開いた。スミオが横で寝ていることを確認すると、ニャアと小さく鳴いてもとのくおいボールのように体を丸めて再び目を閉じた。遠くに霞のかかる、優しい陽光の午後だった。
了