ダイヤモンド
結局のところ、名前がYというだけで住所も家族もましてや性別すら聞くことはなかった。数回仕事に来る他人に、いや来るかもわからないのだから今以上の情報など、スミオには必要もなかったのだ。事実、未だ童顔のYの性別がわからないでいた。本人は高校生と言っていたが、中学生か小学生でも通用するだろう。強いて言うなら、男女に分化する前の子供の顔といった、成熟しない面立ちをしている。たとえYが男だとしても、過酷な環境を生き抜いたというわけでもないのだろう、戦士とは程遠い。逆に女だとしても、少女特有の内に秘めた色香を感じることもなかった。迷った末にスミオがYを男と判断したのは、Y自身が自らを「僕」と呼んだからでしかなかった。
五ヶ月も経つと、スミオはもうはっきりとしたYの顔を思い出せなくなってしまった。その間に新しく猫もやって来ていた。当分、猫は飼わないことにしていた。ミケが死んでも、時折野良猫のトラが作業場に顔を出してくれていたからだった。帰って行く際の後ろ姿は相変わらず少し元気がなかった。
洗い終わったベニアズマを夜に作業場で風乾する際、ネズミが来て食害するようでは出荷作業に支障をきたす。スミオは超音波等の撃退法の存在を知ってはいたものの、何と言ってもその効果において本物の猫に勝るものが無いこともまた、骨身にしみて知っていた。当初、知り合いを当たってみたが、時期的なものもあって見つからず、「愛護センター」に問い合わせたところ「犬はいるが猫は処分してしまった」と言われる始末であった。そんな折にスミオは夜、コンビニ脇にあるゴミ置き場で猫がうずくまっているのを見かけたのだった。蚊に刺されて目は腫れ上がり、夏風邪でもひいたのか鼻水がよだれと混ざって垂れ下がっていた。スミオのヘッドライトに反射した二つの小さな目だけが暗闇の中でギラリと光る異様な生き物に見えた。スミオは、あまりにも惨めなその光景に哀れみを禁じ得ず、つい歩み寄ってしまった。その生き物は逃げなかった。その体力も無かったらしい。
三毛猫だが、顔も体も全体的に黒く、黒猫にしか見えない上に顔の器量も悪かった。
「これでは捨てられてもしょうがねぇな。即戦力にはならないけど、まぁ仕方ねぇ」
飼い主に捨てられてから何も腹に入れていないらしく背骨が浮き出た異様な物体を手にしながらスミオは苦い顔で呟いた。
Yは約束通り現れた。スミオは、Yが作業場に姿を見せるまで五日前のことがまるで白日夢であったかのように感じていたが、現にこうして一緒にいることすら夢の中にいるようで落ち着かなかった。堀取り作業などの猛暑の中での重労働は事前にスミオが済ませておいて、Yには洗ったサツマイモの箱詰め等の屋内作業に着くように段取りをしておいた。
何度目かの午後、仕事の段取りの関係でYに畑に出てもらうことになった。スミオがつる刈り機で刈り取ったベニアズマの茎を鎌で短く刈り揃え、その後で畝(うね)に被っているマルチを手で剥がす作業である。スミオはその間に収穫しておいたベニアズマの洗浄作業に就いていた。
三時になったので声をかけると、息を弾ませたYが畑から戻ってきた。スミオには、Yの顔がどこか満足そうに見えた。そしてYはスミオに、先ほど畑であった出来事を報告し始めた。それによれば、Yが県道側のマルチを剥がしていた時に三人組の男女が寄ってきて、中国語で話しかけられたということであった。
「自分たちも同じ中国人だから安心してくれ。ついてはお前さんの社長さんに我々も使ってくれるよう頼んでくれないか」
そう持ちかけてきた彼らに対して「力にはなりたいが、自分ももうすぐクビになるから無理だろう」と、とっさの方便で切り返した為、彼らは肩を落として帰って行ったのだという。それを聞いたスミオはYの機転も見事だと感心はしたが、何より件の連中と中国語で話したらしいという事実に驚嘆した。
Yが満足げな顔に見えたのは、自分の働く姿が普段から畑仕事で使われている中国人労働者に認められたという自信から来ているに違いないと推察できたが、スミオは中国人達がYを仲間だと判断した根拠は別にあると分かっていた。要するに、この猛暑の中でYのような幼い日本人が自宅の農作業を手伝うことなどあり得ないし、ましてやアルバイトでよその畑仕事をするなど、日本中探しても一人もいないことを連中は知っているのだ彼らは、Yを畑で発見した時点で自分達の仲間であると判断したというわけだ。
額と上唇の上にうっすらと汗を浮かべて話す素直なYの顔を見ると、改めて「なんと美しいのだろう」とスミオは息を呑んだ。しかし同時に、もうそろそろこの儚い夢が終わる頃合いだろうと冷静に考える自分がいることを感じた。
三
なんであんなところに連れて行ったのか、とスミオは自問自答していた。いや、連れて行ったまでは別にいい。なぜ、ウィンドウを半開きにしたままで買い物に行ってしまったのか。
いくら悔いてもキリが無かった。スミオの言う「あんなところ」とは、自宅から車で十五分ほどの、国道沿いにあるホームセンターのことである。それは、小型犬でも通り抜けられないほどの狭い隙間であった。しかし、生後半年ほどのチビ猫にとって、助手席のヘッドレストに乗れば抜け出すのにそう苦労はしなかったはずだ。わずかな隙間を見つけ、必死に脱出を試みたのだろう、ガラスに肉球が擦れた跡が残っていた。チビ猫が、また飼い主に置き去りにされるという恐怖感を抱くのは不思議なことではなかった。件の店舗の周辺を一時間ほど探したが見つからなかった。当初、スミオはそれほど焦りはしなかった。外に出たところで行くあても無く、少し探してやればすぐに見つかるだろうという程度の認識しかなかったのである。
閉店後、店で買った懐中電灯を持って昼間よりも少し広い範囲を長いこと探してみたが、その日はとうとう気配を感じることすら無かった。その夜、スミオは飯も喉を通らず、寝つけずに缶ビールを開けてみたが苦くて半分飲んで捨ててしまった。
「私はあなたの助手席の女になりたかっただけなのに! 」
点けっぱなしの深夜テレビに映し出された涙顔の女はそう叫ぶとすぐに消えた。
“もしもクロを取り戻せるなら、他のどんな命を犠牲にしたってかまわない”
スミオは本気でそんなことを考え始めていた。女が消えた画面には今や蛍光灯で照らし出された狭い部屋が映っていて、その暗い部屋から、落ち武者のような形相のスミオがこちらを見ていた。
クロの失踪から五日目の朝が来た。スミオの中で、捜索への情熱はすでに萎えていた。これまでの四日間は朝が白むのを待ってホームセンター周辺を探し、昼間仕事をしてから夜にまた探しに出かけるという具合だった。
“もうあの辺りにはいないのかもしれない。もしかしたら、もうすでに別の人の手に渡ってしまっているのではないだろうか。四日も経てば同じ場所に留まっている可能性はずいぶん低いだろう。野犬に襲われてしまっても何の不思議もない”
そんなことを自分に言い聞かせ、スミオは昨夜の捜索をもって終わりにしようと考えていた。今朝はもう探しに行くつもりもなかったので幾分遅くまで寝て過ごした。