舞うが如く 第五章 1~3
竹子はその他に和歌もたしなみました。
幼少の頃から、ひたすらに文武両道に秀でた女性を目指しました。
又その通りに、自身の才能を磨くことに明け暮れる日々を送っていました。
しかし、そんな彼女の平穏な日々も長く続くことはありませんでした。
慶応4(1868)年1月、
「鳥羽・伏見の戦い」において、幕府軍が薩長連合軍に敗れたため、
幕府軍の一員として参戦していた会津藩は京を去り、
江戸に退却せざるを得なくなりました。
前将軍・徳川慶喜が江戸で謹慎生活に入ることになったため、
藩主・容保と会津藩士達は、故郷会津へと引き上げることに決まりました。
その頃、竹子は薙刀を習っていた赤岡大助の養女となり、
会津城下郊外の坂下(ばんげ)にあった赤岡家の道場に寄宿をしていました。
ここの師範代として、武道に鍛錬する生活を続けていました。
竹子の才能を大きく買っていた養父の赤岡大助が、
兄の息子を養子にして、竹子と縁組させようと考えました。
よころが、当の竹子自身が、
「藩が危急存亡の秋を迎えているというのに、
縁組どころではありません!」
と、怒りを露にして、
結局赤岡家とは離縁をしてしまい、憤然と実家へと戻ってきてしまいました。
「才女がゆえの見識です。」
「そういえば、いつぞやの覗きの若者たちは
どうなされたのでしょう、
いまだに、竹子さまを慕っておいでのようですが・・・」
「歳もいかない少年たちですが、
放置をいたせば後にも祟ると思い、脅しの意味などもありましたが、
一度懲らしめておこうと思い、ある意味では、
実は本気でもありました。
隙あらば、
一刀のもとに斬る捨てるつもりでもおりました。」
「もう、そのくらいで良いでしょう。」
薙刀の稽古を終えた八重がもどってきました。
「今は白虎隊として、
練兵中の若者たちのことですね。
わたしのところにも、銃の鍛錬に来ている者もその一人です。
竹子どのが、美しすぎるがゆえの悪戯心と、
ついぞ白状もいたしました。
竹子どのが、あまりにも混浴の銭湯が嫌いすぎるゆえの、
罪作りでもあるとは思うのですが・・・
美しいということは、
たいそうな罪も生みまする。」
作品名:舞うが如く 第五章 1~3 作家名:落合順平