舞うが如く 第四章 13~14
慶応3年の(1867年)10月14日、
将軍・徳川慶喜は朝廷に対して、日本の統治権を返上することを表明し、
翌15日には勅許を得て大政奉還が決まりました。
慶喜はさらに、
10月24日に征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出ました。
これに対し朝廷からは、
国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら
緊急政務の処理は引き続き慶喜に委任され、
将軍職も暫時従来通りと据え置かれました。
これにより、実質的には慶喜による政権掌握が続くことになりました。
しかし慶喜の本当の狙いは、公議政体論のもとで、
徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったのです。
だが、予定された正式な諸侯会議の開催が難航しているうちに、
薩摩藩を中心とした倒幕派が、12月9日にクーデターを起こし、
そのまま朝廷と政権を掌握してしまいました。
さらに王政復古の大号令を発して、徳川幕府の廃止と
新体制の樹立を宣言します。
さらに新体制による朝議においては、
慶喜に対し、官位辞職と領地の朝廷への返納を決定してしまいます。
また、禁門の変以降京都を追われていた長州藩の
復権も認めました。
慶喜は、辞官納地を拒否しますが、
配下の暴発を抑えるために、
やむなく二条城から大坂城へと移動をします。
12月16日には、各国公使に対して王政復古を非難しつつ、
条約の履行や各国との交際は、自分の任であると宣言をしました。
同時に新政府内部においても、
山内容堂や松平慶永らの公議政体派が盛り返し、
慶喜の議定就任が取り沙汰されるなど、辞官納地は
事実上骨抜きにされつつありました。
しかし実質的に朝廷を掌握した薩摩藩は、
討幕を進めるための戦略として旧幕府勢力たちとの、
戦端を開くことを密かに企だてました。
まず江戸市中で、幕府を挑発する工作を開始します
薩摩藩士及び彼らの集めた浪士たちにより、
放火や強盗などが繰り返されて、
江戸の町中が大混乱に陥りました。
作品名:舞うが如く 第四章 13~14 作家名:落合順平