舞うが如く 第四章 13~14
これらの策動に乗せられて、老中・稲葉正邦が命を発して
ついに薩摩討伐が実行されてしまいます。
庄内藩と新徴組によって、
江戸薩摩藩邸が焼き討ちにされてしまいます。
薩摩に対するこの反撃は、
大坂にいる旧幕府勢力を高揚させるきっかけになりました。
勢いづく会津藩士らをはじめとする、
旧幕府の諸藩兵たちを、
慶喜は制止することができなくなってしまいます。
こうした背景に押されて、
慶喜は「薩摩の不法行為を誅する」とした
上奏表(討薩表)を朝廷に提出しました。
さらに倒幕勢力を掃討するために、配下の幕府歩兵隊や会津藩、
桑名藩ら主力とした軍勢を
大坂から京都へ向けて行軍を開始させました。
明けて慶応4年、1月3日の夕方ころ、
京都の南郊外の鳥羽及び伏見において、
薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と
旧幕府軍がついに衝突して、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。
両軍の兵力は、
新政府軍が約5000人、旧幕府軍が約1万5000人でした。
新政府軍は、武器では旧幕府軍と大差はまったくありません。
逆に旧幕府軍の方が、最新型の小銃などを装備していたのですが、
初日は、緒戦の混乱や指揮戦略の不備などのために
旧幕府軍のほうがまず、苦戦をしてしまいます。
翌1月4日になっても、
旧幕府軍の淀方向への後退が続きました。
同日のうちに、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍として、
薩摩、長州軍に、錦旗をあたえるとする朝命が下りました。
これにより、薩長軍は正式に官軍として任命され、
加えて土佐藩も、新政府軍に参加することになりました。
逆に、旧幕府軍は賊軍とされたことにより、
佐幕派諸藩は、一気に動揺をはじめます。
1月5日、淀藩は、
賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、
固く門を閉ざしたまま、官軍への助成を宣言します。
旧幕府軍は淀城下町に放火をしながら、
さらに八幡方向へと後退をします。
翌6日、旧幕府軍は
八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ちましたが
山崎の砲台に駐屯していた津藩が寝返ってしまいます。
逆に旧幕府軍へ砲撃を始める始末になりました。
こうして旧幕府軍は、山崎以東の京坂地域からは全面的に撤退をして、
ふたたび大坂へと押し戻されてしまいます。
この時点での総兵力では、
いまだに旧幕府軍のほうが上回っていました。
しかし1月6日の夜になると、慶喜は自軍を捨てて
大坂城から少数の側近だけを連れて、
海路で、江戸へと退却してしまいます。
これは敵味方を問わず、
慶喜の敵前逃亡として認識されてしまいました。
慶喜のこの退却により、
旧幕府軍は戦争目的を喪失してしまいます。
各藩は戦いを停止して、それぞれに兵を帰しはじめました。
さらに戦力の一部は江戸方面へと戻ります。
こうした始まったのが、
およそ1年半にわたる内乱の、戊辰戦争です。
最大の激戦の地となった会津では、
琴と八重、竹子や優子へ、激しい運命が襲いかかります。
京都から進軍を開始した官軍の足取りは速く、
関東の各地を次々に制圧をしながら、最大の敵とする会津に向かって、
2方向から、その包囲を開始しました。
第四章・完
作品名:舞うが如く 第四章 13~14 作家名:落合順平