舞うが如く 第四章 10~12
そしてもうひとつ、
ここ大内宿には、遠く太平の時代から伝わるという、
悲しい物語も残されています。
平清盛の全盛時代、高倉宮以仁王(後白河天皇の第二皇子)は
諸国の源氏に激を飛ばして、源頼政と共に平家打倒の
挙兵をおこないました。
しかしこの計画は平家によってただちに発覚をしてしまい、
京都・宇治川を挟んでの合戦で、頼政は
討死をしてしまいました。
高倉宮はからくも逃げ延びますが、奈良に向かって敗走の途中、
流れ矢にあたって討ち取られたと伝わっています。
享年は、30歳とされています。
しかし、屍体の確認が完全ではなく、
伝承ではその場を逃れ、東海道から甲斐・信濃の山路を越えて、
上野(群馬県)の沼田から桧枝岐(ひのえまた)村を抜け、
ここ大内宿にまでたどり着きました。
桜木姫は、高倉宮の愛妾といわれています。
高倉宮敗走の後を慕って、ようやく大内宿にたどり着きましたが、
長い苦労の旅により倒れてしまい、18歳の若さで、
ここ大内宿で病死したと言われています。
村人はその死をはかなんで、村はずれに墓を建てて供養しました。
この墓の周辺は、今でも主君に仕える人が眠る原ということで、
御側原(おそばはら)と呼ばれています。
大内宿では毎年、半夏の日(7月2日)に
高倉宮ゆかりの半夏まつりが行われています。
村中の男衆が、総出で参加をします。
古式ゆかしい行列が大内の宿場内を練り歩いたあと、
やがて、村の西はずれにある高倉神社に帰っていきます。
この様な祭礼が、幾百年もの間にわたって
山間の地である大内宿でおこなわれてきたという事実は、
高倉宮を敬う、強い信仰のなごりをしめすものだと思われます。
なお祭礼当日には、桜木姫を祀る桜木姫霊社にも
注連(しめ)縄が張られ、同じように同格として、
人々に祭られています。
作品名:舞うが如く 第四章 10~12 作家名:落合順平