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舞うが如く 第四章 10~12

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舞うが如く 第四章
(11)大内宿にて

 関東と会津を結ぶ会津西街道の交通の要衝のひとつ、
大内宿は、本陣や脇本陣をそなえた宿場として、
また荷駄運送の駅所としても、おおいに栄えた歴史を
今日まで克明に伝えています。


 会津藩主(初代と2代、8代)の参勤交代の際も
この街道を通って江戸へと向かいました。
さらに年間では、数万俵にのぼる廻米も運ばれています。
戊辰戦争の際に大内宿は、会津軍と新政府軍が激突して
大激戦の場となりました。



 会津軍の後退のときには、あわや焼きはらいに遭うところでした。
言い伝えによれば、当時の名主による死を覚悟した必死の抵抗によって
まぬがれたと伝えられています。
 撤退する側も侵略する側も、焼き払いは戦略上での
常とう手段の一つでした。
逃げる側は、退却路の遮断と残された食料の焼却を狙い、迫る側は
敵が立てこもるための遮蔽物の撤去が、その目的になりました。
こうした巻き添えにいつも泣かされたのが、一般庶民や農民たちです。
激戦をきわめた会津戦争の中で、焼失をまぬがれた大内宿は、
まさに当時の人々の、命をかけた
抵抗のたまものだったといえるでしょう。



 時がは幕末から明治と代わり新しい時代を迎えても
大内宿は江戸時代のままでしたし、
人馬の往来にも大きな変化はありませんでした。
明治17年に、日光街道( いまの国道118号と121号)
が大川沿いに開通すると、
人や物の流れも新しい道路へ移ってしまい、
やがて大内宿は、交易の道から取り残されてしまいます。


 新しく開通した日光街道は、
関東と会津を結ぶ最短距離にあったばかりでなく、
道幅も広く、補修も完全であったために、
到底、大内宿のある下野街道が対抗できるものではありませんでした。


 これ以降 大内宿は山間の僻村として以後の時代を過ごしました。
しかし大内宿では、日光街道から遠く隔たったところに位置したことと、
時代の波に取り残されたことによって、奇跡的に
茅葺きの家並みを残すことにもなりました。