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舞うが如く 第四章 7~9

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 そんな矢先、
会津藩より琴に一通の書状が届きました。
差し出しは、会津藩・御用人、山本覚馬とありました。

 「至急の依頼事あり、
 急ぎ、会津藩御用館にて面談いたしたし」
と記されてありました。


 どれ一人では何かと物騒であろう、
拙者が護衛に・・・と、立ち上がった沖田とともに、
琴が会津藩邸に向かいます。
近代的砲術の指導者として名声を馳せた山本覚馬ですが、
蛤ご門の変では、眼に傷を負い、いまでは失明の危険もあるというのが
近頃の京でのもっぱらの評判でした


 幕府の「西の要」とされた京都所司代は
室町幕府の侍所(さむらいどころ)からはじったものです。
徳川幕府に受け継がれた所司代屋敷は、二条城北一帯に広大な敷地を持ち、
上屋敷、堀川屋敷、千本屋敷などから構成されていました。



 さらに、徳川時代の所司代は
関ヶ原合戦直後に、あらためて設けられたものです。
皇室や公家の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取り締まり、
さらには近畿八ヶ国の訴訟処理、西国三十三ヶ国の大名たちの
動静監視などに強い権限を持つもので、
幕府の老中に次ぐ最重要役職のひとつでした。
文久2(1862)年に、あらたに京都守護職が設けられると、
京都所司代は、その管轄下に属すことになりました。



 その年の12月24日に、
会津藩主・松平容保が京都守護職として入京しました。
当初は黒谷の金戒光明寺を本陣としましたが、翌3年には、
千本通り下立売角の所司代下屋敷北側に、
雄大な会津藩御用屋敷を設けました。



 さらに、北は下長者町通りから南は下立売通りまで、
また東は新町通り、西は西洞院通りの、南北二町・東西一町におよぶ
広大な敷地を買収して、京都守護職・御用屋敷の大普請が始まり、
慶応元年に、ようやく完成をします。