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舞うが如く 第四章 4~6

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 近藤と土方による新撰組の
独占支配が色濃くなってきたためでした。
新撰組自体も、当初の尊王攘夷思想からは、逸脱をはじめました。
ひたすら幕府をまもるための護衛部隊として、
勤皇の志士達の弾圧のために、出動することばかりが増えてきたのです。


 もうひとつ、先日の出動で山南が左手に深い傷を受けたことも、
武士としての働きに影を落とすようになりました。
左手が思うようには回復をしないまま、
市内警護への出動回数も減りました。
そんな山南を気遣ってくれているのが、昨年秋に、
入隊してきたばかりの伊東甲子太郎です。


 
 伊東は、常陸志筑藩士(郷目付)
・鈴木専右衛門忠明の長男として生れました。
忠明が家老との諍いによって隠居した後、伊東が家督を相続したものの、
後に忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、
一家は領外へ追放されてしまいます。


 伊東は水戸へ遊学し、
水戸藩士・金子健四郎に剣術(神道無念流剣術)を学びました。
また、水戸学を学んで、勤王思想に傾倒します。
追放後の忠明は、高浜村東大橋(石岡市)にて村塾(俊塾)を主宰し、
帰郷した伊東も、その教授に当たりました。


 のちに、深川佐賀町の北辰一刀流剣術・伊東道場に入門しますが、
道場主の伊東精一に力量を認められて婿養子となり、
伊東大蔵と称するようになります。


 元治元年(1864年)の10月に、
同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟をしました。
同年の11月に、弟の鈴木三樹三郎や盟友の篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、
門人の内海二郎や中西昇らとともに上洛をします。
このときの上洛の年(甲子)に因んで、
伊東甲子太郎と称するようになりました。


 新撰組では、参謀兼文学師範に任じられました。
容姿端麗で巧みな弁舌から、伊東に対する人望は高かったようです。
しかし、伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていましたが、
新選組首脳が佐幕派となり、勤皇思想も倒幕に傾むいてきたことから
水面下では、それぞれに微妙な矛盾も生じはじめました。