毒虫少女さみだれ現る現る
意味を為さない空想から逃げ出し、五月雨は老婆の肩をそっと押した。戸惑いながら、しかし曖昧さを感じさせない眼差しで小さく頷くと、老婆はゆっくりとベンチから立ち上がり軽自動車の方へと歩いて行く。その後ろ姿を見守るでもなく、五月雨はただ短く息を吐いた。老婆の背中から視線を外し、ひどく安易な群青色に染まる空を見上げる。少しだけ湿った風が頬を撫で、遙かひまわり畑の終端まで駆け抜けていった。
横たわる死体だけが物も言わず、安堵を口許に忍ばせている。
その沈黙がたまらなく羨ましくて──五月雨は、ほんの少し強く、地面を蹴ってみた。ぬかるんだ泥が跳ねて、ひまわりの太い茎を汚す。ただそれだけだ──爪先がほんの少し汚れて、ひまわりがほんの少し揺らめいて、静寂(しじま)が微かに破られただけ。いずれこの景色に変化が訪れることはない。
「──あの女の、ああ、凭(もた)ることはまたとない(Nevermore)──」
好きな詩の一節を呟いてみる。
ただそれだけで──ほんの少しだけ、自分が許されたような気がした。
誰よりも許しを与えず、罰を求めるのが五月雨自身だということは自覚していたけれど──人並みに良いことをすれば報いがあるのではないかと、浅ましい期待を抱いていたことに気付く。
助けてやった──つもりはないのだけど。
結果はそうなったのだろう。
冷たい死に向かって背中を押しただけなのかもしれないが──だとしても、罪ではないと信じたかった。
廃駅が軋む。
夜が来る──拒んでもいずれ暗闇の帳が落ちて、また振り払われる朝になる。
「……僕は」
──良いことを、した。
言い聞かせるだけ馬鹿らしくなって──五月雨は、それ以上何かを思うことを止めた。
昼と夕の狭間だけが、小柄な少女を沈黙したまま見詰めている。
■ □ 結 □ ■
「……あの部屋番号って、何でいっつも書き換えてるの?」
「──へや?」
住処にしているアパートの、無駄に豪奢な門扉を開け放ち、二階の自室に戻ろうとしたところで──不意に声をかけられ、五月雨はあまりの意外さに間抜けな声を漏らした。へや、という音がなかなか正しい単語に置き換えられない。数秒の間逡巡して、ようやく目の前の女性が部屋と言ったのだと気付いた。
めぞん跡地──五月雨が一人で暮らすアパートの、誰が管理しているのかもわからない広大な庭のただ中で。外階段を下りてきた女性に声をかけられて、五月雨は静かに首を捻った。
まがりなりにもメゾン──住居と前置きしているのに、堂々と跡地という名前をつけた辺り、この集合住宅の管理人が浮き世離れした感覚の持ち主であることが知れる。そんなアパートに住んでいる人間達も皆、良くも悪くも個性的な住人ばかりだった。五月雨は祖父と一緒に六年暮らし、その後は一人でこのアパートに住み続けているので、ほとんど最古参に近い──自分が個性的であるとは思えなかったが、浮き世離れしている自覚はあった。深夜徘徊を繰り返す不登校児というのは、少なくとも世間に迎合できてはいないだろう。
目の前の女性は、他の住人達に比べれば、ひどく普通であるように思えた。
瓶底のように分厚い眼鏡をかけ、長い黒髪をお下げにまとめている。アニメのキャラクタがプリントされた安っぽいトレーナーを着込み、見た目だけなら典型的な苦学生といった出で立ちだった。実際には学生ではなく、求職中の成人女性ということだったが。
先日このアパートに引っ越して来たばかりとのことで、一度だけ挨拶にと訪れてきたことがある。空室の多いこの建物のどこに引っ越してきたのかまでは知らなかったし、そもそも極端に夜型の生活をしている五月雨とは接点らしい接点もなかった。
その女性が──不意に、話しかけてきたのだ。
部屋名──と繰り返されて、ようやく何を聞かれていたのかを悟る。
「ああ……僕の部屋のことですか」
とりあえず触りの返事だけはしたものの、どう説明して良いのかがわからない。
この女性──名前も聞いていないので、眼鏡さんと心の中で仮称することにした──が聞いているのは、五月雨の暮らす部屋のことだ。アパートの二階部分、西側の角部屋に暮らす五月雨は、毎日その日の気分で部屋番号を勝手に書き換えている。本来ならば201号室と書かれていたはずの表札には、今日は『THE INCREDIBLY STRANGE CREATURES』と記されていた。基本的に、その日見た映画の名前を書くことにしているのだ。
特に意味があるわけでもないし、理由らしい理由も思い浮かばない。何で、と改めて聞かれれば、何となく、というのが偽らざる本音だった。初対面の人間に対して「別に意味はないです」と答えるのが何故か気まずくて、五月雨は咄嗟に嘘を吐くことにした。
呼吸するように口から出任せが出てくるな──と半ば自虐めいた感心を覚えながら、探り探りで言葉を紡ぐ。
「僕は熱心なホラー映画マニアなので、日々啓蒙活動に勤しんでいるのです」
「……ごめん、ちょっとよくわかんないな」
「え、駄目ですかこれ」
「駄目っていうか、意味わかんないよ」
苦笑しながら言われ、全くその通りだと内心で同意する。言った後で、自分でもわけがわからないと思ったのだ。まして初対面の眼鏡さんからすれば、意味がわからないどころの話ではなかっただろう。
「ああ……その、部屋番号を書いておくと、色々不都合があるんです。知人が尋ねてきたりとか」
「知人が尋ねてくるって、不都合の内に入るの?」
「プライバシーが侵害されるんです。最近は104号室に入り浸ってるみたいですから、普通の部屋番号表記に戻しても良いのかもしれませんけど」
「104号室って──ああ、あの、太ったおじさんがいる部屋?」
「部屋はそうですけど、知人はあのおじさんじゃありません」
僕は──あの人と、接点がないですから。
告げて、微かに息を吐く。人と話すのは嫌いではなかったが、ひどく緊張する──言葉に『毒』があるせいで、他者との過度な接触を禁じられているのだ。祖父の言い付けを破ったところで叱責されるわけでもないのだが、このアパートの家賃を払ってくれているのは祖父なのだから、無闇に怒らせたところで得はない。
中学校入学と同時に不登校になり、以後深夜徘徊を繰り返しては昼間に眠る生活を続ける五月雨にとって、優秀なサラリーマンであるらしい104号室の住人とは全く接点がない。一応世間体も気にするし近所付き合いも大事だとわかってはいるのだが、適度な距離感の取り方がよくわからないのだ。
──『毒』が染み込まない程度の付き合いなんて。
それこそ、会って挨拶するか、世間話をして別れるぐらいが関の山だろう。
──さあちゃんの『毒』は強すぎる。
──死にたくない人まで、死ぬ気にさせる──。
──死んでる奴まで殺す──。
──そんな『毒』を、野放しにはしておけねえだろう──。
祖父の言葉を思い返す。確かに彼の言う通りだった。五月雨は自分の言葉が劇毒物の類であることを十分以上に自覚していたし、その危険性もはっきりと認知している。
だから──浅い付き合いしかしないし、できない。
作品名:毒虫少女さみだれ現る現る 作家名:名寄椋司