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毒虫少女さみだれ現る現る

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「……変わった名前ね」
「偽名だから」
 言い切って、薄く微笑む。
 この老婆が相手ならば、本名を教えても良いような気がした。そうしなかったのはただの習慣だ──生活全ての面倒を見てくれている祖父からの言い付けを、盲目的に守っているに過ぎない。
「お嬢──ちゃん」
「……何ですか」
「亮ちゃんは──どこに行ったのかしら」
 ──ずっと一緒にいたのに。
 同じ問いを繰り返す──同じ問いだと理解しないままに。
 込み上げる虚しさに押し潰されるような心地で、五月雨は老婆を横目に見遣った。ひまわりよりも深く項垂れて、できれば倒れてしまいたいとすら思う。
 ぽつぽつと雨粒が線路を打ち、水音を鳴らす。同じ答えを返すだけの気力もなく、ベンチに並んだ二人は互いに居心地の悪い沈黙を味わうだけだった。
 最早誰を待つわけでもなく、壊されることすらなく、時間に溶けていくしかない廃駅。
 もう二度と役目を果たすことのない線路。糸を引く白雨。一面のひまわり畑と、そのただ中に打ち捨てられた軽自動車。雨に煙る景色はどこか異国の風景写真を見ているかのように、ひどく現実感が希薄だった。手を伸ばせば届くはずなのに、ぼんやりとした像しか結べていない。全て映画の書き割りだと言われれば信じてしまいそうな程、何もかもが虚ろで、明瞭としたものは何一つなかった。
 五月雨はもう答えない。
 答えに足りる言葉が見つからない。
 ──ああ──。
 風景はこんなにも完璧で、美しいのに。
 人間は──こんなにも足りないものばかりだ。
 静かな悲嘆に暮れて、五月雨は雨粒と同じ速度で嘆息した。

■ □ 鋪 □ ■

 女は眠る、ああ、覚めないかぎり、
 その眠りの深くあれ、
 うじも静かに女のまわりを這えよかし──
                 ──E・A・ポー『死美人』

■ □ 叙 □ ■

「──息子さんはもうお亡くなりになりましたよ」
 老婆の足下に転がる死体へと語りかけるような心地で、鈍重に唇を開く。頭の隅に蹲る痛みは、恐らくは語ることの無意味さを嫌と言う程自覚しているせいなのだろう──わかってはいるが、言葉を止めるだけの理由にもならない。
 ピースの欠けたパズルを組み立てているようなものだった。予め失われ、完成図が見えていても最後まで不足は残るのだ。
 焼けた軽自動車のように──空に焼き付く月のように。
 熱のない心だけが、五月雨の胸中で脈打っている。
「あなたは重度の認知症に冒された。息子さんはあなたの介護のために駆けずり回った──失業して、給付金は打ち切られ、生活保護も受けられない。頼れる親族もいない。誰も助けてくれない中で、あなたを支えようと……息子さんは、亮一さんは、身も心も削るように生きていました」
 ──けれど、
 限界だったのですね──。
 呆けた老婆に、刃を突きつける。
 形もなく、重みもないが、確かに突き刺さる刃を──慈悲も容赦もなく。
「献身的な介護の甲斐なく、あなたの認知症は加速的に悪化していった──生活はどんどん圧迫されて、亮一さんはついに決心したのです……決心せざるを得なかったのです」
 雫が、線路に伝い落ちる。
 白雨だが冷気はなく、むしろどこか暖かさすら感じた。
 空気中を漂う、目に見えない虚しさの粉を視線で振り払うように、五月雨は目を眇めて灰色の空を睨む。
「──お母さんを置いていく息子もいませんから──」
 ──あなたを置いていくことはできなかったから、
 ──あなたと一緒に逝こうとしたのです──。
「けれど──あなたは自分が死んだことすら、忘れてしまったのですね」
 指揮棒のように人差し指を振り上げ、老婆の右耳に触れる。その軌跡を追って身を乗り出し、耳元へと唇を近付けて、
「──私の言葉を『聞き』なさい──」
 ──慈悲も容赦もなく、
 ──痛みのない刃を突き刺していく──。
「お嬢ちゃん──」
「五月雨ですよ──僕の名前は晩生内五月雨です。『聞いた』のなら『わかり』ますね?」
 びくん、と。
 老婆の体が電流を流されたように震えた。
 痙攣し、喉をひくつかせ、恐る恐る足下を覗き込んで、
 ひい──と魂消るような悲鳴を迸らせた。
「り──亮ちゃん!」
「『そう』です。あなたは車と一緒に焼け死んで──それを見届けてから、亮一さんは亡くなられたのです。ようやく……思い出していただけましたか」
「そ、んな、私は」
「お辛いでしょうが、僕は嘘を言いません」
 ──じゃあ──、
 それなら、亮ちゃんは、
「──こんなに苦しんで──」
「──『違い』ますよ」
 紡がれかけた言葉を切り捨てる。
 廃駅の外、雨音がほんの少しだけ弱まった気がした。
 そんな些細な出来事にすら心を慰められながら、五月雨は淡々と喋り続ける。
「苦しんでなど『いない』──」
 老婆の足下には中年の男が倒れている。
 胸を押さえ、四肢は冷たく硬直しきっていた。
 けれど、その表情には不思議と悔恨や苦痛はなく、むしろどこか安堵したような安らかささえ感じさせるものだった。
 見る者が見れば──まだ生きているように思えてしまう程、安らかに。
「──『心臓発作』です。長年の介護生活で負担がかかっていたのでしょう。痛みはない──『一瞬で』亮一さんは『亡くなった』のですよ」
「──苦しく、なかったの?」
「当然です。僕が言うのですよ。お辛いでしょうが──」
 ──僕は、
 ──嘘は言いません。
「亮一さんはあなたを置いて行かなかったのです。あなたと一緒に逝こうとした。でも、当のあなたがこんなところでうろうろしていたのでは、逆に亮一さんの方こそ置いて行かれた格好になる。気付いたのなら……さあ、もう、お逝きなさい」
 ──辛いだろうけど、
 ──それでも、お逝きなさい。
 静かに雲が晴れていく。いつの間にか雨音は止み、黄金色の花弁を揺らす風だけがさあさあと流れていた。項垂れていたはずのひまわりは皆揃って顔を上げ、降り注ぐ鮮やかな月光を全身に浴びている。錆びついた線路には微かな露が光り、焼け焦げた軽自動車は静かに佇み乗員が乗り込むのを待っているかのようだった。
 あれ程に破滅的な美を湛えていた風景はもうどこにもない。生気に満ち溢れた月明かりは五月雨の好みではなかったけれど、だからといって無下に否定できるものでもなかった──浮かびかけた拒絶の言葉を飲み込み、喉に苦味だけを残す。目に見えるものから目を逸らそうとしたところで、結局のところそれを見ずにはいられないのだ。偽りに逃げ込もうとしても、必ず真実に追いつかれる。滅び行く様が美しいのだと感じたのなら、今まさに生まれようとする美しさも認めなければならない──生も死も、どちらか片方だけでは存在できないのだから。
 穏やかな心地で死に逝くのか、惨めな悔恨に塗れて死に逝くのか。
 どちらが正しいというものでもない。死ぬことは等しく悲しいし、取り返しがつかないことでもある。
 それでもせめて──錆びた鉄の中に輝く露のように、拠り所のない気持ちを残そうと思うのならば。
 嘘から逃げるのではなく、真実をすり替える程度の傲慢は許されるべきなのだろう。