毒虫少女さみだれ現る現る
毒虫少女さみだれ現る現る
■ □ 起 □ ■
ごみすて場──あるいは、どこに着陸しても同じところ。
──マックス・エルンスト『百頭女』
■ □ 承 □ ■
廃駅に佇む。
ひどく静かな心地になる。
さあさあと風が鳴り、柔らかな雨が白い糸のように降り注いでいた。麻酔をかけたようにぼんやりとした月が浮かび、重く垂れ込めた雲の隙間からささやかな光を滴り落とす。掘っ立て小屋のような駅舎には丸い壁掛け時計が放置され、針はちょうど三時を指したまま止まっていた。壁はところどころくすみ、塗料が剥げ落ちている──腐朽しているというわけでもなく、ゆっくりと死に続けているようだった。
空は薄暗く、しかし夜にはまだ遠い、中途半端な時間帯だった。灰色に覆われた視界の中、駅舎を取り囲む時季外れのひまわり畑が雫に打たれ項垂れているのが見える。懸命に空を仰ごうとしながらもそれは叶わず、黄色の花は静かに耐えて地面を見詰めていた。はたはたと花弁が揺れ、太い茎はそよぐ風に身を委ねている。空に浮かぶ月だけが、焼け焦げた痕のように身動ぎもせず眼下を睥睨している。その視線に慈しみや憎悪などあるわけもなく、冷たい硝子窓のように硬質で無機的な月光を灯すだけだった。それも時折うねる雲間に隠れ、途切れてしまう。
静寂が染み込み、風景の無意識が完璧になっていた。
不躾な防災無線も鳴らず、風と雨だけが一定の音律を奏でている。
駅舎の背後を通る形で敷設されたレールは、赤錆と背丈の短い雑草に覆われていた。ホームとも呼べないような、コンクリ製のささやかな乗合場所はところどころ亀裂が走り、歳月の猛威に晒されていたことを教えてくれる。レール脇に寄り添うような形で放置された軽自動車は、廃駅以上に朽ちていた──硝子は全て割られ、落書きされた上から錆び、陥没し、あるいは不自然に隆起している。車内は焼け焦げて黒ずみ、内装類はほとんどが炭化し、崩れ果てていた。
一面のひまわり畑に囲まれた駅と自動車は互いに朽ち果てる様を見守り、見届けようとしているかのようにも思える。
何もかもが演劇か映画のように設えられた、ただ穏やかに死を迎えようとしているその駅に佇み、晩生内五月雨(おそきない・さみだれ)は微かな溜息をこぼした。ぼさぼさの髪に乗せた黄色い洗面桶がずり落ちて、視界を斜めに切り取ってしまう。むしろある程度遮られていた方が遙かに気は楽だった──美しいものはあくまで鑑賞するものであって、同居するものではないのだと叱責されているような気分だったからだ。
ひまわりの足下にうずくまる水溜まりが、雨に濡れた姿をことさら惨めに見せつけてくる。
胸元にストライプ模様のシフォンフリルがあしらわれた、細い体にぴったりとしたラインの白いシャツ。黒いショートパンツは裾の部分にレースが施され、全体的に見てやけにひらひらとした印象だった。白い太腿まで届く黒のオーバーニーソックスに、同じく黒の厚底ショートブーツを合わせている──衣装だけ見ればそれなりに清潔感もあるのだろうが、着ている本人からすればどこか浮いているとしか思えない。
容姿に関して人から褒められる機会は多かった──自慢ではなく、寧ろ自虐として思い返す。容姿以外の全てにおいて他人から劣っていることを自覚する身としては、無理矢理良いところを挙げられている気がするのだ。
その容姿ですら、この風景の前では何の意味を持つこともない。
勝ち気な吊り目で見据えるひまわり畑は悄然と項垂れながら、それでも決して立ち枯れることなく沈黙して耐えている。真っ直ぐな鼻筋も、艶やかな唇も、雨に濡れる花弁と比べればあまりに不完全だ。
意志もなく、意図すらなく、個々が独立して存在するだけの自然がある一定の割合で組み合わさったとき、人間には決して及ぶべくもない美が発露する。
「……それに比べて」
──人間は、
肉の塊で、ぶよぶよしていて、不定形で──醜い。
どれだけ顔形を褒めそやされようと、五十年も経てば老いさらばえる。移ろいゆき、時間と共に美しさは剥離していく。今目に映るこの風景のように、朽ちていくが故の美しさなど、人間に求められるはずもないのだ。
老いていくにつれ肌はたるみ、皺が刻まれ、毛髪は抜け落ちる。
筋肉は削げて骨と皮だけが残り、脳細胞の破壊によって知識も理性も失われていく。
人間の老いは醜い。
いずれ必ず老いるのだから──人間は、醜いのだ。
「……僕は」
──それでも。
この風景のように、誰からも見向きされずにひっそりと朽ち果てる、その美しさを見詰めていたかった。
廃駅のベンチに腰掛け、膝の上で組んだ指を解く。
湿気った空から一滴、人差し指の上に雨粒が垂れた。
親指の腹で擦るように指を弾き、水気を飛ばす。ぱしん、と濡れた音が響いた刹那──隣に座っていた老婆が痙攣するように体を震わせた。
小柄で、痩せこけている。何が恐ろしいのか怯えた顔で、終始落ち着きなく辺りを見回しては、より小さく体を縮こまらせていた。老婆の足下には中年の男が倒れている──かき切られた喉からは既に血も流れ尽くして、全身の肌色は青白く変わり果てていた。誰が見ても息絶えている。当然身動ぎもしないし、無念の形相は灰色の空に焼き付いた月を見上げたままだった。
老婆は必死に首を巡らせてはいるが、足下の死体にはまるで無頓着だった。知って無視しているわけではなく、本当に気付いていないかのように振る舞っている。
──気付いていないのか。
「──気付くわけもないんです」
独白して──五月雨は、自分の声に驚いていた。
言葉にするつもりはなかったから、ひどく間の抜けた発音になっている。聞き咎める者もいないだろうが、だからといって気恥ずかしさが消えるわけでもない。ただの思いつきだから、意味のある呟きですらなかった。それでも一度口に出してしまった以上、老婆からの続きを催促するような視線が無視できるわけでもない。静かにかぶりを振り、ずり落ちようとする洗面桶を手で押さえながらぼそぼそと喋り続ける。
「気付きませんよ。見えないものは、わからない……人間ですから」
「──お嬢ちゃん」
──亮ちゃんは、
「亮ちゃんは──どこにいるか、知ってる?」
ぼんやりとした、輪郭のはっきりしない声で聞かれる。
老婆の足下で、喉元を掻きむしるような格好で倒れている男の死体を一瞥して、五月雨は小さく頭を左右に振った。
「……知りません。亮ちゃんって誰ですか」
「私の息子よ。亮ちゃん。さっきまで一緒にいたの。亮ちゃん、どこ行ったのかしら……」
「さあ──でも、きっと帰ってくるんじゃないですか? まさか」
──お母さんを置いていく息子もいませんから。
虚しい心地で告げ、五月雨は鈍く嘆息した。
「ねえ、お嬢ちゃん──」
「──さみだれ」
──おそきない、さみだれ。
老婆の言葉を遮って名乗る。座る位置をずらし、半身だけで向き直る格好になった。腰に結んだ紐がベンチに擦れ、先端に括られたクマのぬいぐるみが泥水の中で踊る。
「晩に生まれた内(うち)、五月の雨。晩生内(おそきない)──五月雨(さみだれ)っていう名前。お嬢ちゃんじゃ、ないです」
作品名:毒虫少女さみだれ現る現る 作家名:名寄椋司