充溢 第一部 第二十話
第20話・5/9
自分の家なのに、これほど入るのに気合が必要な日は、他にないだろう。
取り敢えず落ち着かせるために、お菓子とお茶を出す。血糖値が上がって、体温も上がれば、少しは冷静になってくれるはずだからだ。
落ち着いてきても、彼女のまごついた様子は変わらなかった。刺々しさが失われた分、可愛い恋する乙女と言う風情と見られない事もないが、そうは言ってもストーカーである。
「その……私、ずっとあの人を見続けていて……
ええ、こんな気持ちになったのは初めてなんですよ。
今まで、男の人を好きになった事は何度もありますけど、全然違うんです」
それはお幸せな事で……とやっかむ気持ちが出てきた。これほどまで振り回されていながら、最後に残った自分は、地味に彼氏のいない女だと言う事実だ。欲しいとか欲しくないとか以前に、何か人として持つべき感情に欠陥があるような気がして、酷く嫌な気分になった。
「でも……ずっと見てきて……気付いたんです」
これは来ると、腰を浮かす。すぐにでも立ち上がれるように。
「あの方は……女の人なんですね!」
建屋は氷結された。ものの十五分は息もしていない気がした。
女は呼気一つ分置いて、続けた。
「その……女の人が、女の人を好きになるってどうしたら……
スィーナーさんは、どうやって、この気持ちに整理を付けました?」
相手の女は顔を紅潮させている。言葉が見当たらない。世界を見ている私の中の標準を飛び越え――暗黒大陸のど真ん中に放り込まれたようなものだ。話す言葉すら通じないように。
そうして、逡巡して更に暫く――息を吹き返した瞬間に、自分が何を叫んだのか分からなかった。きっと、世間では口に出来ないような発声であっただろう。
彼女を説き伏せるのに、どれほど言葉を尽くさなければならなかっただろうか。
彼女は、シザーリオを見るにつけ、女性的な記号をいくつか発見することが出来たと言う。先に男として惚れた上、その決定的な要素がこの"女性"性であると気付くと、彼が本当は女であって欲しいと願うようになったという。
ストーキングの成果は、願いを補強するばかりで、仕舞いには居ても足ってもいられなくなる――それが今朝の決断と、今の結果へと注がれた。
ミランダの顔が明るく晴れ上がるようになるにつれ、心は苛立つ。何を嫉妬しているのだと自分に言い聞かせる。自分に同情する自分が、自分をより惨めにしている。
この精神的励起は、新しい効果をもたらした。魔女的な発想――彼女にとって魔女的とはポーシャライクなと言う意味である――状況から汲み出せる最大限の混沌を求める衝動を生んだ。
ミランダが浮かれて、妄想を加速させる。うわごとのようなものだから、怒りを込めて、それを無視して、思沈する。
どうしてやろうか。今日の事は伏せておいて、もっと虐めてやるか? 彼女と引き合わせて、ネリッサが正体をバラされるのではと震える姿を見ると言うのも一興。
しかし、それは今と大して変わるまい。それを見るなら、男共の群れの中でそうしてやるほうが楽しかろう。
いっそ、ネリッサを彼女の好きなように遊ばせるか。それはまた面白そうだ。女心を玩ぶと、自分こそが騙されるのだと言う事を、男は思い知るべきなのだ。
人の見る目も気にせず妄想に耽るミランダを見て、ここに小細工を施しても失敗するな、と確信した。ならば、道は決まったか。
作品名:充溢 第一部 第二十話 作家名: