充溢 第一部 第二十話
第20話・3/9
昨晩、学園の実験室の中で、一人の研究者が自殺した。
その研究室は、スィーナー様と関わりがあるところだと聞くと、居ても立ってもいられなくなった。フェルディナンドに強く催促して、現場に足を踏み入れた。
プリージ先生とも顔を見合わせたが、私の正体は気付かれなかったようだ。事件の所為か、お屋敷にいるときよりもずっと刺々しい。
遺体も何もすっかり片付けられた後だから、調べることも少なかった。周囲の人間に事情を聞いていると、あれやこれやと行く手や、会話を阻まれる。
碌々調べも出来ぬまま、居心地の悪い学園を退散する事となった。
騎士団の館の一室。石造りの冷たい部屋の中で、書類を前にフェルディナンドと顔を見合わせる。
彼は遺言の書かれたノートのことが気になると言う。表紙にユニコーンのシルエットが描かれたノートだ。学園の研究者が持っていたのは、群青色の表紙で、聞けば実験ノートは指定のものを使う事になっているらしい。
問題のノートは、『疲れた』と書かれているばかりだった。
洞察力には感心したが、さて、何か特別なことか?
「ユニコーンは憤怒の象徴でもあるだろ? 何か引っかからないか?」
フェルディナンドは含みのあるような口調で話すが、考えすぎに見えた。
彼の手前、椅子に深く腰掛け、天井を見上げ、難しい顔をしてみせる。しかし、一向にそれらしい事は思い当たらない。
顔を戻すと、男は自信を覗かせた。
先のレストランのオーナーの件、食卓にあったのは豚だ。イアーゴーの場合は、犬に食い荒らされていた。
それぞれ、暴食と嫉妬だ。先の憤怒と並べれば、七つの大罪のように見えてくると言う。やはり、考えすぎのようにしか思えない。
フェルディナンドの推理を怪しむ色を消さないでいると、彼は、その話を打ち切って、実験室のメンバーの証言を思い出させた。
彼等は口々に、スィーナー様の悪口を並べ、仕事を取り上げられたことに腹を立てて殺したのだと言っていた。他に恨むような人間もいないと――出入りの業者に聞き込むと、とてもそんな善人ではなさそうだったが。
彼をそんな風に見ているところを見ると、メンバーは多かれ少なかれ同じ態度で、外の人間と接しているのだろう。
自殺そのものが疑わしいのは分かる。論文提出前なら兎も角、見事に掲載された後だ。思い悩む理由が一番少ない時期だろう。だから、同僚の証言の片方だけは信じることが出来た。
加えて、彼の兄の話によると、性悪で図太い性格だから自殺なんて考えられないと断言する。兄弟は彼の性格をずっと正確に見通せていたようだ。
フェルディナンドがスィーナー様の事に触れようとしたので、すかさずアリバイを証明した。昨日の晩も工房で一緒だったのだから。
「お熱いね」
彼の口調には、おどけるような様子はなく、さらっと返したので、こちらも抗議の口調で、冗談にならないと告げた。
フェルディナンドは気にする様子もなく、フンと頷いただけで、話を続ける。
「彼らは、彼女が殺した事にしたいらしい。事情を知っているかね?」
話はポーシャ様から聞いていた。それ故に、あまり喋りたくない事だ。
「興味本位でしたらご自身でお調べ下さい。でも、一つだけ言いますが、むしろ彼女は被害者ですからね」
言葉に熱が入ってしまった。相手はかぶりを振りながら答える。
「いいよ、私も学園の連中は好きじゃない。
下請けの人間がどんな扱いをされているかも知っているよ」
私やスィーナー様の気持ちを慮ってか、フェルディナンドは怒りにも見える遠い目をして続ける。
「研究室の中で人が死んでいるというのに、ああして責任をなすり付け合っている。醜い連中だ」
内部では、"何があったか"よりも"どう理解するか"の話し合いが成されている。そして、誰が悪い事になるのかも。
「彼女は言っていました。
『個々に友人知人となっていれば、大抵の人はいい人だ』と」
「出来た娘だね――勿体ないね」
にそりと笑ったが、何に対して勿体ないと言ったのか判断が付かなかった。
『それにしても何故』――表情を戻し、あごひげをさわりながら、騎士団長は思案していた。
このままだと、スィーナー様に、いらない事を直接聞き出しそうで怖くなった。レストランのオーナーの件ですら、あんなに複雑な顔をしていたのだから。
「彼女にはなるべく言わないようにして下さいね。いつも強気なのに、内心臆病ですから」
彼は、再び頬を弛めた。
「お熱いね」
不安を感じているのは自分なのだと見破られていた――単にひょうきんな男と言う訳でもなさそうだ。
作品名:充溢 第一部 第二十話 作家名: