作品集
電車にて
誰も囁くことの無い両耳にイヤホンを放り込み、溜息を吐く。普通電車は夜に溶け込むように、滑るように、上手く走ってみせる。
遅い。
不意に膝が痒くなり、手を伸ばす。足元の細かな鎖に気付いたのはこの時で、好奇心を振り翳し、拾い上げる。先頭車両に、しかも22時に、電車に乗り込む人間なんて僕くらいだった。
その鎖は、シルバーであるはずの褪せたキーを通していた。恐らく18世紀頃の英国辺りで実際に使われていたものだろう。表に裏にと、くるくる翻し、入念にキーを観察した結果だ。
"No.0704 UK"
控え目にそう彫られていた。他に変わった所は無かろうかとキーを弄んでいると、声がかかった。
「終点ですよ、お客さん」
人の良さそうな皺が幾つもたたまれた顔だった。
「あ、すみません…」
「お気を付けて」
キーネックレスを、まるで物を盗んだ者のようにジーンズのポケットにねじ込み、ホームへ飛び出す。
我に返り、自販機で温かいコーヒーを押す。すぐ後ろで待っていたサラリーマンに会釈をし、プルトップを指に引っ掛けてぷしっと空ける。深い香り、というヤツが鼻をくすぐる。
少しして、目的地が終点の電車がホームに顔を出す。電車に乗り込み、ポケットに手を突っ込む。
その時、気付いたのだ。
一本の鎖を繋ぐ輪に、小さなアルミのプレートがあることに。そのプレートは小指より一回り小さく、筆記体で”touru”と刻まれていた。
脳天を抜ける鈍痛。
そのまま周りに置き去りにされ、結局また「終点ですよ」と諭されてしまった。