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オブスキュラ

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 借りた本は二冊とも写真集だったので、本を入れると鞄の重量が一気に増す。図書室を出て門をくぐったまではさほど重いように感じられなかったが、段々肩に食い込んできて、鞄の中にある本の角張った角が少々邪魔だ。電車の中で席を確保すると美夜子は借りたばかりの本を眺め始めた。古い本だ。よく見ると歴史の棚の分類番号が背表紙に貼られている。日本史の写真集のようだった。隣に並んでいて借りた方の本はごく普通の写真技法の本だったから、誰か本棚に戻すときに場所を間違えたものらしい。妙に艶のある厚いページを壊さないようにぱらぱらめくると奇妙に色鮮やかな写真が白黒の中に入り交じっていた。写真は白黒写真の上から絵の具を塗って彩色したものらしい。そのままぼうっと眺めていると電車は駅に着いて扉が開いた。人が外へと流れ出す。
 美夜子もフィルムを巻いて階段を下りるといつもと同じ駅前の風景がロータリーを中心に広がっていた。カメラを構える。一瞬で消えてしまう景色をより鮮やかに、繊細に、写し取ってしまう技術は確かに夢の所産だろう。けれどもファインダーの中の光はいつもとほとんど同じだ。光まで変わってしまうわけではない。いつもと変わらない動作で、色を写すのだということを少しだけ考えながら写真機を構えてシャッターを切るたびにフィルムを送って、歩きながら被写体を探す。ガード下の道から折れて駅から遠ざかると、静かな住宅街が広がっていた。建物が低いから空も大きい。学校近くの空はもっと混んでいる。道路の真ん中にある緑地帯の低い茂みが風の通るたびにさわさわ揺れるのが、カーテンを動かす様に似ていた。暗室の作業を放課後したのと、図書室で意外に時間を食ってしまったことが大きく働いて、歩き始めてからまだ間もないのにそろそろ辺りは薄暗くなってきていた。夕日の色が町を埋め尽くす。ゆったりとしている道の幅一杯に、建物の切れ目から覗く夕日が細長く光を落として道路がまだら模様に色付いている。足下にレンズを向けた。影を捉える。一体彩度はどれくらいなのだろうか。ボールペンのインクが切れていたことを思い出して美夜子は進路を変えた。小山内の言っていた図書館に繋がる路地の前を通り過ぎる。駅前に近くなって顔を上げると灯りのつき始めた看板の灯りがやたら目に眩しかった。ようやくロータリーの端に辿り着いて振り出しに戻る。駅の前は更にごった返している。
 ――どうしようか。
 カメラを持ったまま、あてもなく美夜子は考え始めた。辺りはもう暗くなりかけている。フラッシュを焚けば多少暗くても写せないことは無かったが、いかにもカメラを構えて撮るというのはあまり好きになれない。光の届く範囲は限られているし、眩しいのはもとより苦手とする所だ。せめて少しでも明るい所で探そうと駅の中に入ると見覚えのある後ろ姿があった。
 片方は伊織だ。
 もう一人の方はどこにでもいそうな、同じ学校の制服を着て、伊織より高い背を窮屈そうに折りたたんでいる。背の高い方の影が振り向いた。小山内だった。カメラを持ったままの美夜子に何を思ったのかは知らない。まなざしを向けても、シャッターを切らなければ何も写らないのと同じであったし、証拠は何も残らない。何も出会わなかったも同じだ。けれども目を塞いだところで何も変わらないことは知れていた。小山内は困ったように首を傾げて、切符を買っていていた伊織を一度見てからそうして腕をそっと上げると美夜子に見えるように口元で小さくバツを作った。伊織はまだ気付いていない。
 上手く頷けたのかどうかよく判らなかった。二三度大きく縦に首を振ったが、相変わらずカメラは構えたままだ。フィルムを巻いていたのかどうかすら定かではない。小山内は元のように背を向けると伊織と何か話し始めた。券を買い終えて歩き出しても、駅の入り口で美夜子は立ちつくしたままだったが、何も気付かなかったように小山内も伊織も駅の入り口は見ずに改札を越えて、ホームへ向かう階段を並んでゆっくり上がっていった。どれほどの時間が経ったのだろう。気付けば駅の外は真っ暗だった。
 掌の中にも印画紙に光景を焼き付けるための暗室がある。あるいは魂を入れておくための真っ暗な箱だ。暗くなってしまったのでもう撮影は出来そうになかった。美夜子は駅から離れるように歩き出す。商店街は駅の真正面に、ロータリーを挟んで光るように連なっていたが、向こう岸に渡るにはロータリーの楕円の縁を回らなければならないので案外遠い。追っても追っても届かないもののようにも思えたが、そんなこともなく無事に商店街の入り口まで辿り着いた。喫茶店の中には明々と光が付いている。
 そういえば伊織も眩しそうに目を細めていたのを思い出して美夜子は振り返って駅のを見た。特にうらやましくはない。参考程度に聞き流したまえと言った春風と、普段教室で見る小山内の背の高さはあまり変わらない。少なくとも春風なら図書室の棚の一番上に手が届かないということもないだろう。伊織も小山内も、放課後きっちり別の場所で過ごした後で駅で落ち合うことにしていたらしい。よりにもよってと美夜子は思う。別に伊織が誰が好きであろうが、小山内が誰と付き合っていようが、美夜子の知ったことではない。小山内はただの級友だ。繊細だとか鈍感だとか言うことを、併せて春風は言っていたような気もするがそういうことだったのかと今更のように思った。遠くから撮った写真の中の伊織と、喫茶店で駅の方を眺めて目を細めていた伊織はおそらくどちらも小山内のことを考えていたのだろう。
 踏んでいる地面は果たしてあるのか、沈み込まないところを見ると現実のようである。もう日も暮れかけて暗いというのに渦巻くように高鳴る靴の、足の踏み所に至るまで色鮮やかに見えるのは、ショートした脳の回路が弾き出す幻なのか、影法師ですら鮮やかに見えたが手の中の写真機の重さは変わらなかった。フィルムは巻いてあるのだろうか。シャッターを押せば本当にそのまま姿が写るのだろうか。写ったところでそれはカメラの中の暗室とは別の世界での出来事で、写真の中に切り取られた伊織は確かにある時点で伊織の目の前にいたのがまるで嘘のようだ。
 八百屋の店頭が明るかったのでシャッターを切る。商店街を抜ける頃になるとすっかりフィルムを撮り尽くしてしまったのか巻き上げが上手く動かない。回しすぎるとフィルムが破れてしまうから、歩く速度を落としながら残り枚数を確かめると案の定零になっていた。モノクロフィルムならばまだ予備がある。
 けれども家へ向かって広がっているのは暗室のような静けさだった。辺りの光源はぼんやりと光る街灯だけで、いつもと同じ帰路である。暗い中ではものの色もよく見えない。
作品名:オブスキュラ 作家名:坂鴨禾火