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オブスキュラ

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 ふわふわと笑う伊織の掌に写真機を載せる。確かに写真部で後輩の美夜子の目から見ても、春風は変人の部類に入る。夫の丈も少し高くて切りそろえた短髪に、凛々しい眉をひょいと載せてとかくよく喋る。目下日光写真に夢中だが、その前に熱中していたのは特撮映画だったので、写真部というよりどちらかといえば科学部や映像研究部の方に向いているのかもしれなかったが、その分写真の原理やら撮り方の知識に精通しているのである。春風なら二眼カメラも使えるのではないかとカメラを持ち込んだ美夜子の予想通り、喜々として春風がカメラに飛びついた。
 伊織にそのまま任せていると蛇腹を壊してしまいそうな気がしたので、先に留め金だけ外してピントを合わせる。目の位置よりも低いカメラの目が上下逆さまに世界を捉えてぼんやり光っていた。人の目でいえば網膜に当たるフィルム位置は更に低い。春風から昼間教わったばかりのことを丁寧になぞりながら、カメラの向きを百八十度回転させて伊織の覗きやすいように位置を直した。箱の側面には二つ穴が空いていてそれぞれにレンズが填っている。
「箱の上の蓋を開けると、外の景色が見えるの。普通のカメラはプリズムを入れて反転しないようになってるんだけど、これはそのまま映すから、逆さなのは勘弁ね。焦点合わせておいたから」
「はーい」
 それにしてもよくこんなの持ってるよねとファインダーを覗きながら伊織が言った。
「美夜子くらいしか暗室使わないんだったら、春風先輩も多分デジタルだよね?」
 デジタルもやるし古いカメラにも詳しいんだよ、と美夜子は来たばかりの紅茶に口を付けた。春風は雅号ではなく本名が斎藤春風からだ。
「あの人は遊ぶから、デジタルの方が都合がいいんじゃないかな」
「美夜子はデジカメにしないの」
 撮ってもすぐに見れないじゃん、とコーヒーを飲もうとして慌ててミルクをつぎ足していた伊織が言った。コーヒーに付いてきた分では足りなかったのか、美夜子のピッチャーにも手を伸ばしている。
「写りとかほとんど今デジカメと変わらないって電気売り場の人が言ってたよ」
 覗くだけに飽いたのか、しばらくカメラのあちこちをいじっていた伊織に、そこがシャッターだと教えた。
「撮っていい」
「いいよ」
 シャッターの切れる音ががしゃんと響いて、案外静かだと伊織はシャッターボタンから手を放した。
「いつものはすっごい音立てるから、アナログってみんなそんな感じなのかと思ってた。白黒写真なのもこだわり?」
「一応。あれはあれで好き」
 シャッターの感覚がギロチンみたいで好きだと言うと、伊織は何だかなあと呟いた。だから工藤に葬式って言われるんだよ、とみそ汁のようにコーヒーを啜って、やはり苦いのか伊織が笑い顔を収める。コーヒーカップを介して伝わる熱で掌を温めようとしているのか、伊織は飲みかけのコーヒーをソーサーではなく掌の上に置いた。
「写真って、いくらフィルムがカラーでも偽物でしょう」
「偽物じゃないよ。証拠写真とかどうするの」
「それはそれ。撮られた風景はもう動かないんだよ」
 例えばあの中にあの中に誰かいるとするねと美夜子は窓の外を指した。つられるように伊織が窓の外を見る。
「さっきみたいにシャッターを切ると、フィルムが露光して映った景色を記録する。これはアナログでもデジタルでも大体同じ」
 カメラの中に映った景色の中にはおそらく伊織が考えている誰かはいない。けれども伊織の中の風景にはここにいない誰かが映り込んでいるはずだ。そうして撮った写真を現像すれば駅前の様子が印画紙に映し出されてくるはずだったが、結局それは写真機で撮った風景で、現実とは切り離された所にあった。風も吹かない。人も動かない。絞りや露光の加減で思い通りの景色を写せても客観的な現実からは結局かけ離れていってしまう。大体平たい紙の上にあるのは現実ではないのだ。
 だから好きなんだと美夜子は言った。
「動かないんだ」
 ギロチンで首を切ったところの死んだ現実なのだ。
 美夜子がそう言うと写真は本物じゃないかな、と伊織はコーヒーカップの底を覗いた。
「一瞬でもそこにいたんだから。本物じゃなかったら悲しいもん」
 六時からまた用事があるって言ってたから、今から引き返してきたら次の用事に間に合わなくなっちゃう、と太めの眉を引き上げて伊織が言った。最前まで一緒に遊んでいた誰かのことを考えていたらしい。それとも本当に戻ってくるかな、と伊織は再び窓の外を見て目を細めた。コーヒーカップは相変わらず空だ。飲み干してしまってからもう大分経つはずなのに、伊織はカップを手放そうとしない。手元に置いていたカメラに手を伸ばすと、美夜子は伊織に気付かれないようカメラの覗き窓から外を見た。伊織の髪に浮かんだ光の輪が何となく綺麗だ。痛みやすいと口では言いながら、肩口で綺麗に整えられている伊織の髪は、元は黒いのに光に当たると茶味がかるのが鮮やかである。そこまで室内は明るくなかったので、露光をやや長めに取ることにする。カメラのシャッターは三枚の目隠しが首枷の周りからせり出して風景を切り落とすから原理は微妙に異なっているがギロチンもシャッターもバネを使っている。伊織は誰のことを考えていたのだろう。手の届きそうで中々触れられない距離だ。伊織が住んでいるのはここよりも二つ三つ向こうだったから、定期があればわざわざ電車賃を払わず来ることが出来る。がしょんと軽めながらもバネの音が響いて、切り落とされた風景の中とは別の所に立っている伊織が驚いたようにこちらを向いた。
「今の撮ったの?」
 別に変な顔はしてなかったよと美夜子は言うと、顔を真っ赤にして伊織がそういうのじゃないんだってと身を乗り出した。結構美人に撮れてたのにと美夜子が言うと更にさっと赤くなる。とりあえず一度焼いたのを見てみれば、と美夜子は言ってフィルムを巻き上げた。伊織をモデルに写真を撮った場合、謝礼と確認を兼ねて焼いた写真を渡すことにしているが、二日三日かかるのが難点だ。だからデジカメの方がいい様に思うんだよと言いながら、伊織が渋々といった様子で頷いた。それからコーヒーのカップを口に運ぶ。口を付けてから空だと言うことに気が付いたのか、カップの端から離れると、ギロチンの例えだと写真の中の私はもう死んじゃってるんだよねと呟く。おそらくそういうことになるはずだった。
「変なの」
 言って伊織はカメラを見る。写真に死臭はしない。本当に死んでもいない。魂を保存している箱ようなものの様だねと美夜子が呟くとでもそれはそれはちょっと見てみたいかなと伊織が答える。
「でも、やっぱり死体だ」
 写真は動かない。
「人のこと写しておいて死体とか言わない」
「あはは」
 次、写真を持っていくときまでに、上手い云いを何か考えておくよと美夜子は言った。
作品名:オブスキュラ 作家名:坂鴨禾火