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オブスキュラ

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くるくると空を飛んでいるのは雁か、鳶か、そんなことを思いながらシャッターを切る。随分高い所を飛んでいて、その上逆光だったから写真機を持って下から眺めていてもよく見えない。少しずつ高度を下げているようだ。フィルムを巻き上げがてら露光の目盛りを改めて見るともう一度天を仰ぐ。空は朽ちかけて茜色、東方の空はまだ明るい青に染まっていたがあまり暗くなると写真も写しづらくなる。カメラを構えたままそんなことを考えていると、鳥は急降下を始めた。人怖じもせず傍の欄干を足で掴む。
 カラスだった。
 カメラを構え直す間もなくカラスは羽を広げると、駅前の広場の方へ向けて再び滑空を始めた。帰宅時間であるせいか駅前の広場はぐるぐると人の頭が渦巻いている中に鳥は悠々と飛び込んで見えなくなった。結局撮れたのは初めの一枚だけである。カラスを追おうにも人混みに紛れてよく見えない。
 人を撮るのは難しい。
 山村美夜子はそんなことを思った。街頭でシャッターを切るたびにぎょっとして振り返ったままじろじろと眺められるのは、写真部に入って数ヶ月経つ今でもあまり慣れていない。動物相手なら文句はあまり言われないのに、相手が人だととかく難しかった。そのくせ人物写真やポートレイトを見るのは好きだ。矛盾している。せめて点景だけなら何とかなるだろうかとカメラの窓を覗くと丁度列車と列車の合間であったのか、駅前から人がいなくなって広場の地面に敷き詰めてある煉瓦の色がよく見える。モノクロフィルムを使ういつもの癖で、コントラストが鮮やかな街頭の下にカメラを向けると誰も気付いた人はいないようだった。絞りとシャッター速度をもう一度確かめた。
 ――あ、伊織。
「おーい」
 カメラの先のストラップが揺れる。
 丁度五時だ。再び駅前にどっと人があふれ出して制服の姿は見えなくなる。人波が退くのを待って再度姿を確かめるとやはり消えずにそこにいたので、美夜子は大きく手を振った。美夜子が着ているものと同じ制服を着た少女が外灯の下に立っている。いつからいたのだろうか。駅前のカメラを向けた丁度その先に立っているのに気が付いたときにはもうシャッターは落ちきっていて、がしゃんと薄い羽が風景を切り取った後だったから人を撮ったつもりはなかったのだがもし写り込んでいたならポートレイトになるのだろうか。一体どのくらいの近さから風景写真はポートレイトになるのか考えながら、美夜子が呼びかけても遠すぎるせいか伊織は駅の方を向いたままぼんやりしている。二度、三度呼びかけるとようやく気が付いたのか、同じようにぴんと手を伸ばすと大きく振った。確認したとの返答代わりに今度は小さく手を振って、美夜子は階段を降りはじめる。降りきって外灯の方を眺めると伊織はまだ手を振っていた。大きく振った弾みでよろけてふらふら揺れている。
「伊織、何やってるの」
「こうすれば、背もちょっとは大きく見えるかなって」
 今日一日で自分の背の低さが嫌になったんだよ、と伊織らしからぬ表情でぼやいて電車がホームに吸い込まれていくホームがある辺りを見上げた。下り電車が一本ホームからかけだしてゆく。いつもならばじっとしていることは稀で、あちらこちら走り回っている伊織が今日は妙に静かなように思える。
「寄り道で降りた。美夜子は写真部なの?」
「自主活動だよ」
 写真機を見せるとふうんと伊織は頷いて、一人なんだと呟いた。伊織は友達と遊びに来ていたらしい。もう帰っちゃったんだけど、と駅を名残惜しそうに眺めていたが、ホームから電車の姿が消えたのを見て見送りを終わらせることに決めたのか、くるりと向き直ると今日はモデルはいいのかと美夜子美夜子に言った。
「疲れてるなら早く帰った方がいいんじゃない?」
 写真に人を撮るときの専らの被写体は伊織で、本人も心得ているのかカメラを構えているとすぐに寄ってくる。休めば元気だよ、と微妙に辻褄の合わない日本語で答えを返すと軽く二三歩ステップを踏んだ。一人で先に歩き出した伊織の足は相変わらず落ち着かないようにそわそわしていて、そこだけを見ればいつもの伊織の様にも見えたがやはり少しふらついていた。ふらふらと言うよりはふわふわしている。それになんだか幸せそうだ。見ているだけで危なっかしい。
「休もう」
 伊織の制服の袖を捕まえると美夜子は言った。
「モデルのお礼代をかねて私持ちで。いい?」
「いいの?」
「いいから」
 美夜子が止めるのも聞かずに走り出す伊織は今に転ばないかと美夜子が肝を冷やしているのを知って知らずかぴょんと跳ねて振り返る。かかわる美夜子も恥ずかしい程の浮かれようだが、放っておくわけにも行かないのでとりあえず一枚シャッターを切ると追って慌てて走り出す。目途をつけていたファーストフードの店の前を通り過ぎた。どこま行くのかだろう。
 広場の隅まで来ると伊織は立ち止まって幸せそうな顔で振り向いた。
 駅前の喫茶店など今まで入ったことはなかったので少し気圧されて立ち止まっている美夜子を尻目にベルを軽やかに鳴らすと伊織の姿が店の中へと消える。一体コーヒー一杯でいくらするのだ。浮かれて走り回っている伊織よりも、財布の中身を心配している自分の方が余程子供のように思えて少し情けない。そもそも伊織はこんな店に入ったことがあるのだろうか。鳴り響いていたドアベルが段々音を小さくして消えていくのをドアの前に立って眺めていると、再びドアが開いて店の中から伊織が顔を覗かせた。思わず首から提げていたカメラを美夜子が手に持ったのがおかしかったのか、くすくす笑って伊織がカメラの手を引く。
「美容院行ったの」
 髪がいつもより柔らかい線でくるくると巻いてあるのに気付いて聞くと、おしゃれがしたいお年頃なのですよと伊織がわざと声色を変えて言った。窓側の席に陣を張る。メニューに手を伸ばして値段を確かめると、伊織の分も支払ったとしてもぎりぎり手持ちで足りそうな値段だったので、軽く溜息をついて一番安かったコーヒーを頼む。じゃあそれわたしも、と伊織が美夜子の注文に乗ってしばらく考え込んでいたが、ややあってケーキも、と頼んだ。
「本当にコーヒーでよかったの」
 注文を付けるついでに撮影の許可を取って深く椅子にかけなおすと、甘いの頼んだから平気なのだと伊織が答えた。それからごめんねと小さく謝る。多少予測よりは高く付いたが、支払いに困るほどではなかったのでいいよと軽く流すと美夜子は辺りを見回した。腰掛けていた椅子のクッションが思ったよりも深く沈んで、少し動くとゴブラン織りの表布が擦れて痛んでしまいそうだった。簡単な飲食を窮する店だからなのかはたきや箒は店の隅まで行き届いているようだったが、調度が全体に古めかしくて拭き落とせないような時代感が染みついている。そんな中にあっても相変わらず伊織はどこか浮ついた調子でそれよりもカメラ見せて美夜子の方に両手を伸ばした。
「いつものと違う」
「前から持ってはいたんだけど、使い方が判らなかったから、今日春風先輩に見てもらったんだ」
「あの変なカメラの人?」
作品名:オブスキュラ 作家名:坂鴨禾火