充溢 第一部 第十二話
第12話・3/7
昨日の続きで分液漏斗を振っていた。
朝は何度も顔を洗ったというのに、どうにもすっきりしない。
「お早う!」
元気のある声。この工房に無遠慮に入ってくるのは、ポーシャ一人だけかと思っていたが……
あっけらかんとしたアントーニオの声に、昨晩の後悔は迅速に揮発した。ここで返事なんかしてやるものか。
黙々と振り続ける――男は黙ってその姿を眺める。
静かに時間が過ぎていく。何故か仕事がはかどる。見られると上手く行かない事が多いのに。
気が張ったまま午前は終わった。
「私の負けでいいです。お昼を食べに行きますか?」
「勝ち負けとかないだろ」
その言葉もむかつく。
苛立たしさを見せつけるように、手元の道具を片付ける。相手はガラス器具なので、乱暴に扱えないのが残念だ。
「今日限りですからね」
「最初はそう言うんだ」
全て見通せているぞと言われているようなものだ。そう言う態度はポーシャだけで手一杯なのだ。余計に苛立つ。
「だから、勘違いしないで下さい」
しかし、底意とは裏腹に、心は踊る。鏡に写した姿が可愛くてなんとも腹立たしい。
「可愛いよ」
言葉の調子が軽い。歯の浮くようなものが見て取れる。
「喜びませんからね!」
「言いたいから言ってるだけだ」
影の一番短くなる時間、二人は往来へ踊るように飛び出した。
作品名:充溢 第一部 第十二話 作家名: