私立小田原大学准教授 葉柳俊作
身体を両腕で支えて起こしたとき、前部に二つある座席の間から何か赤いものが見えた。
「ヒッ!」
それは絵里たち親子をコロンビアの日本大使館から拉致し、ヘリコプターで連れ去ろうとした反政府ゲリラのパイロットの死体だった。
身体を起こした絵里は、後部座席の後ろにも2人の戦闘員が死んでいるのを発見した。
二人とも墜落のショックで首の骨を折っているようだ。
逃げないように座席に拘束されていたおかげで絵里たち二人は助かったようである。
まったく人生何が幸いするか分かったものではない。
「おとうさん今ロープを解くから……」
父親の座席に近づき、散らばっているガラスの破片を取って、ロープを切った。
「あ、ありがとう絵里、うっ!」
ひざの辺りを押さえながらしゃがみこむ父親。
その手の下から血が滲んで来る。
「おとうさん大丈夫!」
「む、ひざをかなり痛めたようだ……」
「あ、歩ける?」
「無理だろう」
顔を上げて微笑みながら絵里の方を見る父親。
「行きなさい絵里、お父さんはここで助けを待つよ。」
「いや、私も一緒にいる!」
「それはだめだ、奴らがやってくることも考えられる。」
「でも、おとうさんをおいてなんていけない……」
涙を流してうつむく絵里。父親の胸に顔をうずめてすすり泣きだしてしまう。
「大丈夫だよ、あいつらにとってお父さんは大事な人質だから、殺されたりはしない。だけどお前をあんな犯罪者どもの中においておくなど、お父さんには出来ない」
「お・とうさ・ん…」
「絵里ももう十八歳だ、立派に大人じゃないか。さ、ヘリ後部の荷台から必要なものを持って行きなさい。水や食料、それにサバイバルキットもあるはずだ。それに……」
父親は、足を引きずりながら身体を捻じ曲げ、座席の後ろに手を伸ばし血まみれのカービン銃を引き寄せた。
「ジャングルは危険も多い、これも忘れずにな……」
さっきまでかすかに残っていた空の明るさが、今はもうほとんどなくなってしまってきた。
懐中電灯で足元を照らさないと、たぶんほとんど一歩も踏み出せそうにない。なにより闇が怖い。
サバイバルキットの中に、このコンパクトだが高性能の軍用懐中電灯を見つけていなければ、とてもではないが父親の元を離れる勇気は出なかっただろう。
絵里は足元を照らす丸い光に、途切れそうな希望を託しながら必死でジャングルを進んだ。
キットには地図とコンパスも入っていたが、現在地が分からないので意味を成さなかった。
いまはただひたすら墜落したヘリから遠ざかることだけを考えている。
「なんでこんなことに…」
お昼まではいつもと変わらない一日だった。
朝起きて身支度をして、愛犬と住宅街を散歩する。
帰ってきて父親のために朝食を作る。
母親は日本にいて高校受験を控えている弟の面倒を見ているため、単身赴任でコロンビアに行くことになった父親の面倒を絵里は買って出たのである。
コロンビアの日本人学校の高等部に入学して一年、好きなテニスを続けてきたのが今は心からよかったと感じている。
体力には少し自身があった。
絵里の周りの暗闇はかつて経験したことのないものだった。
鼻をつままれても分からないと表現されるほどの闇を、絵里は初めて知った。
いろいろとこのコロンビア・アマゾンの話は聞いていて、恐ろしいエピソードもたくさん聞いてはいるが、密林の王ジャガーやワニ、それに得体の知れない凶悪な昆虫たち、恐ろしい風土病や寄生虫。
でも今、それらの情報はすべて頭から消えている。
何よりも闇が人の心におこす恐怖のほうが怖かった。
電池が切れてしまい、真っ暗闇の中に立ち往生する恐怖から、休憩の時は出来る限り明かりを消そうと決心していた。
1時間ほど夢中で歩いて、休憩を取ろうとスイッチを消しかけたとき、足元の枯れ木につまづき、小枝を踏み折ってしまった。
暗闇のジャングルに思いもかけない大きな音が広がった。
とたんに周りを覆っている樹木から、いっせいに鳥の大群が飛び立つ。
人の悲鳴にも似た泣き声が何百と巻き起こり、絵里はパニックを起こしそうになる。
この鳥はアマゾンに分布する「ツメバケイ」と言う鳥で、幼鳥のときにまるで始祖鳥のように羽からつめが生えているのでこの名前がつけられている。
集団でいることの多いこの鳥は、水辺近くに好んで生息する。
つまり絵里は知らず知らずに川辺に近づいてきていたのだ。
熱帯雨林では川辺とは危険地帯を意味することを、絵里は知らない。
突然の鳥の鳴き声にパニックを起こしかけた絵里は、必死で歩いた一時間がかなりの疲労を生んだことを感じていた。
何よりものどが渇いていた。
空腹もあるが、今はまず水が欲しかった。
サバイバルキットの中には水はなく、代わりに簡易ろ過装置が入っていた。
水溜りや川があればこれで何とか飲料水は確保できるのだが。
そう思ってがっくり肩を落としたとき、闇の中で音がした。
思わずそちらの方に顔を上げる絵里。
急いで荷物をまとめて音のした方向へと進んでみる。
丈の低い藪をわけて少し進むと急に前に空間が広がった。
川幅十メートルほどの小川が眼前に広がった。
流れがほとんどなく、川面は波もなくただ黒々と水をたたえているだけだった。
左のほうでまた水のはねる音がした。
そちらに懐中電灯を向けると水面に波紋が広がっていて、その中心に三センチばかりの丸い緑色の木の実が浮かんでいる。
さっきからの水音の原因はどうもこれのようだと絵里が納得したとき、その木の実の真下の水面下から、黒い影が浮かび上がってきた。
それは四十センチはある大きな魚で、四角いへんてこな口を大きく開いて木の実を飲み込んだ。
これは南米特産種のタンバッキーという魚で、木の実を主食とするへんな魚である。
「なんだ、魚か、でもその音で水辺が見つかったわ、ありがとう。」
そういいながらさっそくキットの中のろ過器を取り出そうとしたとき
大きな水音がして目の前の水面から巨大な何かが飛び出してきた。
「キャアアーーーーーーッ!」
思わす後ずさった絵里の目の前には、川から飛び出してきた三メートルはあろうかというワニが岸辺に前足を乗り出して寝そべっている。
「ヒッ!」
逃げようと身構えた絵里は、ワニの口がさっきのタンバッキーを咥えているのを見た。
左右に口を振って捕らえた獲物を地面に打ちつけ、ぐったりとした獲物を丸呑みにする。絵里は震えながらそれを見ていた。満足したのかワニはまたゆっくりと川面の中に姿を消した。
絵里はそれを見届けた後、こわごわと岸辺に近づき、出来るだけすばやくろ過器に水を入れた。
水面の水草の陰にはよく見ると、無数の光る目がこちらを見ていて、それがすべてワニのものだと気づいた時、震え上がった絵里は足早に川辺から離れた。
熱帯雨林で厄介なのは昆虫たちで、血を吸うたぐいの虫が結構いる。
その中でも危険なのが蚊で、アノフェレスといわれるネッタイシマカはマラリアの原虫を媒介することで有名である。
作品名:私立小田原大学准教授 葉柳俊作 作家名:おっとっと