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私立小田原大学准教授 葉柳俊作

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「おっと、コンテからの合図だ。」

 放っとくと今にも抱き合わんがばかりだった二人を、腕時計の音が現実に戻した。
絵里の頬が赤い。
俊作は腕時計をはずして絵里に渡す。

「さ、これを持っていくんだ、赤い光が示す方向に救助ヘリが待っているはずだ、急いで。」

「は、葉柳さんは行かないんですか。」

「おれの仕事はこれからだよ。アンを返してくれお嬢さん。」

「あ、はい」

 絵里はアンを俊作に渡す。

「葉柳君とやら、本当に世話になったね。本当に助かったよ。何か御礼をしないといけないな。」

「いえ大使、僕はただ蜂を連れてきただけです、何より最後にあの女性の助けがなかったら、みんな殺されてました。礼は彼女に……。」

その言葉で一斉にみんなの視線は、俊作の背後に立つカレン・シゥに注がれる。
里志はカレンに歩み寄り、その両手をしっかりと握り締めた。

「コロンビア政府に、ここの管理をあなたたちに返すよう、働きかけて見ますよカレンさん、本当にありがとう。」

「ああ、それはありがたい、やはりあんたたちは私ら一族を助けるために、森の精霊が使わした救世主だったんだね、あ、いや、悪魔かね。」

カレン・シゥはあらためてキラービーを操った奇妙な日本人青年を見ながら言った。

「ははは、ひどいや、あ、でも大和田大使、うちの大学に助成金をくれるよう、大臣あたりに言っといてもらえれば助かります、何せ僕の首がかかっていまして、そ、そうそう、僕は急がなければいけません、では仕事がまだ残っておりますので失礼。」

 そう言って俊作は、実にあっさりと、むしろその場から逃げ去るように、肩にアンを担いで朝もやに煙るジャングルへと駆け出していった。
 絵里はその後姿が完全に森の中に消えていくまで、ずっと立ち尽くし、見送っていた。
 やがて里志が娘の肩に手をかけて、川に隠した俊作のカヌーへと急ぐようにうながした。
 
カレン・シゥは差し込む朝の日差しを全身に浴びながら、珍しくもやの晴れた森を見ながらつぶやいた。

「あんた、ムーソにやっと、新しい朝がやってきたよ、あんたが心から望んだ新しいわしらの朝が。」

地面の上に散乱した「オールド・フォレスト」に、朝陽が反射してとても綺麗だった。






第十一章「新たなる冒険へ」


「んー、さすがさすが、葉柳先生、わたしはきっとやってくれると信じてましたよげほんげほんげほん」
 
 心にもないことを言うときはいつも咳き込むのかこの男、と心で嘆きながら俊作は学園長室の大きな書斎机の前のいすに座りながら、コロンビア出張の事後報告をしていた。
 俊作はあれから残り数日をカスタニアの樹に登ったまま、神にも祈る気持ちで、狙っている「キプリスモルフォの青色変種のメス」を待ち続けたのだった。
 期日の前の日、やはり早朝から樹冠の様子を念入りに張り込んでいた俊作は、目当ての蝶がアンの射程範囲に飛び込んできたのを感知した。
 どうもオスと思われる個体と二匹で、早朝のランデブーを楽しんでいるようである。
 俊作は情け容赦なく網を振り、二匹同時に採取することに成功したのだった。

「やっと森の神様が笑ってくれたよ、ふふふふ!」

内心踊りだしたい気分で、でも下手に踊ると樹から落ちてしまうので、自重しながら網を手元に引き戻し、中を確認した。

「!」

俊作は言葉を失う。

神様の愛は予想をはるかに超えていたことを俊作は確信したのだった。


「まさか狙っていたブルーモルフォの他に、こんなおまけまで持って帰ってくれるとは、ホント、先生はたいした人間ですね、ほほほほ」


 近藤学園長の声は天国がこの世に降りてきたかのごとく甲高くなっている。
 どうでもいいがその、ブルーモルフォという言い方はやめろ、モルフォはほとんどの種類が青いんだ、ブルーモルフォだと「腹が腹痛」とおんなじ意味だろうが、と俊作が深く嘆いていることに気付きもしないで、近藤はオークの机の上に置かれた標本箱を宝物でも触るがごとく、恐る恐る持ち上げ中を覗き込んだ。

 黒々と鈍く光るドイツ製の標本箱の中には4匹の蝶が入っていた。
 青くひときわ輝くキプリスモルフォのオス。
 茶色くて地味だが、落ち着いた貴婦人の風格のメス。
 そして、幻と言われたセルリアンブルーに輝くメス。
 更にもうひとつ、最後に森の神様が送ってくれたもの、それは
 
 羽の右側が青く輝くオス、左側が茶色のメス。
なんとただでさえ貴重なキプリスモルフォの「性的モザイク」、つまり雌雄同型と呼ばれる変異体だったのである!

 俊作はこの蝶を捕らえたことで、コロンビア政府から勲章までもらったのである。
 その影には、反政府ゲリラ撲滅の功労の意味もあったが、何よりキプリスモルフォはコロンビア人の誇りの象徴でもあった。
 国にその誇りをよみがえらせてくれたと、政府は感謝したのである。
昆虫には雌雄同型が生まれることがごくたまにある。
 ただしそれが採取されるのは極めてまれなことである。
 ほとんど奇跡と言っていいくらいだ。
 ましてやこんな、世界的にも有名で、かつ貴重な種の性的モザイクなら、その価値はおそらく金額にして数億は下らないはずである。
 現に、大英博物館やスミソニアンなどから法外な金額での買い取りの申し入れが来ている。
 もちろん俊作にその気持ちはまったくない。

「学園長、これで助成金の復活、増額は間違いないです。約束どおりわが大学に希少昆虫の博物館を建設してください。」

「まね、葉柳君ね、そりゃあもう建てます。いやもうたちまち建てますよほほほほほほほほほほほほほほ!」

「よかった、では私は研究室に戻ります。ゼミの学生たちの指導もありますので。」

「あ、ちょと、ちょちょちょっと待ってください葉柳先生。」

「は?」

 きびすを返そうとした俊作が立ち止まる。

「博物館を早急に建設しますのでね、そのー、あれですよ、ほら、」

「なんですか?」

「博物館にモルフォ一種ってわけにもいかんでしょ、ほら、展示物」

「ま、まあそうです、でも僕は海外にいいコネクションを持っておりますから、ヨーロッパあたりのコレクターやオークションから安く標本を手に入れることはできますよ。」

 近藤学園長の目が、獲物を狙うガラガラ蛇のようにキラリと光った。

「いやいやいやいやいや、それはだめでしょう。」

「は?」

「今や先生の名声は昆虫学会では世界中に響き渡ってるんですよ。」

「は、はあ……。」

「昆虫学会のインディアナ・ジョーンズとの誉れも高い!」

「はははは、まさか、そんな大げさな。」

 頭をかきながらも、大ファンの映画のヒーローに例えられて、俊作はまんざらでもない。

「今度作る博物館は、あなたのその名前がつくんです、『葉柳俊作昆虫博物館』!」

「え、本当ですか、うわあ、それは光栄な事です。」

「ハリウッドから映画化の申し入れも来ているくらいですから。」

「え、ほんとうですか、スピルバーグですか?」

「あ、すみません、それはうそでした、ほほほほ。」

 近藤の声が、またしてもオクターブ跳ね上がる。
 ぶっ殺してやろうかと、本気で俊作は拳を握り締める。