私立小田原大学准教授 葉柳俊作
「そんな、怒っちゃあ駄目ですよ、ほんのジョークですよ、ジョーク!」
「頼みますよ、学園長……。」
「それでね、話を元に戻しますが、あなたほどの名声のある博物学者が、あなたの名前のついた博物館に展示する標本を、『買って』来たりしたらだめでしょう。」
「は、はあ……」
俊作の心にいやあな予感がふつふつとへばりついてくる。
「採って来て下さい、他の珍しい虫たちを、世界中を駆け巡って!」
「え、あ、いや、でもそれは」
「予算は心配要りません、どぉーーーんと出しますよ、ほほほほ」
「ああ、いや、そういう問題ではなくですねえ、あの、教え子も教室で待ってますし、第一後期授業はすぐにでも始まりますから、ははははは、僕を必要としている愛すべき教え子たちが……。」
「もしこの博物館が成功すれば、葉柳先生、あなたは教授に推薦されることになるんですよ。」
「ええっ、そ、それは本当ですか!」
「無論です、私が推薦しますから、ほほほほほほほほほほ。」
「わ、わかりました学園長、頑張って行ってきます、世界中のどこにでも、どんな幻の昆虫でも採ってきますよ、はははははははははは!」
「本当ですか、さすが葉柳先生、話が早い!」
二人は両手を握り締めあってむやみに大きな声で笑いあった。
「そうですか、僕が教授に、ははははは、すごい、三十歳になる前に、教授になれるなんて、これで母親にも自慢できる。何が医学部だ、なにが医者になれだ、わはははははははははははやったーーーー!」
「いやあ、そんなに喜んでもらえるとは、私も推薦のしがいがあるというものですよ、あなたは当学園の宝ですよ、葉柳セ・ン・セ・イ!」
教授をちらつかされて完全に舞い上がってしまった俊作を尻目に、近藤はしてやったりと不気味な笑顔を後姿に隠して、ゆうっくりと歩を進め、またしてもあの頑丈な本棚に近づくと、重々しく扉を開ける。
「今度はこれなんかいかがですかねえ」
例の絶滅生物図鑑をぱらぱらとめくり、猫なで声に更に磨きをかけて、近藤学園長は俊作にそのページを見せる。
教授になれる喜びに天にも登る気分を味わっていた俊作の顔色が、一瞬でモルフォばりにまたしても青くなった。
目玉が図鑑に向かってびよーーんと飛び出る!
「な・ん・で・す・って・えええええええええええーー!」
学園長室に俊作の断末魔がこだました。
エピローグ
ここは、アフガニスタンの標高三千五百メートルのとある高原地帯である。
森林限界はとっくに越えていて、ごつごつしたガレ場にところどころ高山植物が群生を作っているだけで、非常に荒涼とした景色が、視界の及ぶ限り延々と続いている。
俊作は名もない岩山の谷間でテントを張って、これで二ヶ月、ほとほと疲れ果てていた。
この二ヶ月間で、俊作を襲ったことは、コロンビアのそれを越えていた。
アルカイダから誘拐されそうになること五回。
政府軍に間違って砲撃されること二回。
F22戦闘爆撃機にナパームで焼却されそうになること一回。
だが、俊作はそれでもこの場所を離れるつもりはまったくなかった。
世界中の蝶の中で、もっとも可憐で愛好家の多い種、アポロウスバアゲハ。
世界中に生息しているこの蝶は、ほとんどの種が二千メートルを超えるような高山地帯に生息する。
谷ひとつ越えただけで、違う変種が生まれるというこの蝶の、新しい変種を求めて、研究者は冒険を恐れない。
俊作が狙っているのはここ、アフガニスタンの限られた谷間にだけ生息が確認されている「アウトクラトールウスバアゲハ」である。
皇帝の名前がつけられたこの蝶は、黄色い巨大な紋が後翅にあって、「イエローエンペラー」の名で有名である。
谷間に咲く花畑をずっとにらみ続けて二ヶ月、自分でも本当によくやるよと俊作は感心する。
だけど世界は何でこんなに争いごとばかりなんだろう。
地球は人間だけのものではないのに、憧れの昆虫に会いに行くと、必ずそこには、人間同士のくだらない紛争があって、自然や人を苦しめているのだ。
一部の欲に支配された人間が、ただ平穏に毎日を暮らせれば幸せと思っている人々を、自分の都合だけでないがしろにするのを、俊作はいやというくらい見てきた。
自然に対してはもっとひどい。
文句を言う口を自然は持っていないからだ。
特に昆虫は環境の破壊に抵抗するすべを一切持たない。
ある種の昆虫を絶滅させようとするなら、いくらマニアが網を振ったって、とてもじゃないが数は減らない。
天敵である鳥や爬虫類などのハンターに、人間の「狩り」の能力は全然かなわないからである。
しかし破壊となると話は別だ。
山一つ真っ平らにして街を造れば、一体どれだけの種が滅ぶだろうか。
谷一つ水に沈めれば、どれだけの生態系が壊滅するだろうか。
国立公園で網を振れば、係員が飛んできてきつい口調で注意する。
しかし国が認可をすれば平気で公園内にホテルを作る。
環境アセスメントごと抱き込んだ、開発計画を聞くたび、つくづく人間である自分がいやになる。
人間の破壊能力は今や地球規模までにいたっている。
まったくどうしようもない生き物である。
そういうとき、またしても俊作はあの「ナナ」となって叫びたくなる。
「おれに虫を採らせろーーーーーー!」
そんなことを考えながらふと見ると、なんとアフガニスタンコマクサの可憐な花びらに、イエローエンペラーがとまっているではないか!
やったー、神様ありがとうとアンを構えて近寄ろうとしたその時、突然の突風とともに爆音が近づいてきた。
そのせいで肝心の蝶は、また大空へと舞いあがり消えていった。
「うぬぬぬぬぬぬ、どこの軍のヘリだこのやろう、ぶっころす!」
こちらに近づいてくるヘリにアンをたたっこんでやろうかと身構える俊作だが、よく見るとパイロットの横にはもう見慣れた顔、コンテ・ベラスケスが手を振っている。
コンテはアフガニスタンのゲリラとも、新しく武器や物資の取引を始めだしていて、今回もずいぶん世話になっている。
「おーい、また補給物資持ってきてやったぜシュンサック!」
「じゃかましいわこの死神商人の南米人め、……ん?」
よく見るとコンテの後ろで手を振ってるやつがいる。
「葉柳先生ーーーーーー、来ちゃいましたーーー!」
「……げっ、絵里君、君、うちの大学じゃないでしょう、学部もたしかフランス文学科か何かで!」
「先月、小田原大学に編入しましたー、先生のゼミ取ったんでよろしくー、えーい!」
「あ、こら!」
まだ上空三メートルのところにホバリングしているヘリから、絵里は葉柳の胸めがけてダイブするのだった。
その後にコンテが花束をひとつ放りなげる。
「はっはー、bom apetite(ボン アペチッチ、ごゆっくり召し上がれ)、しかしどんだけ戦場が好きなんだお二人さんw。」
爆音は空の彼方まで響いている。
おしまい
作品名:私立小田原大学准教授 葉柳俊作 作家名:おっとっと