私立小田原大学准教授 葉柳俊作
絵里は俊作に近寄り、インスリンの注射器をうけとると、そのまま森の中に入ってゆこうとする。
俊作はあわてて絵里に追いすがり、絵里の手を取って引き止める。
「は、放してください、私が行かなければおとうさんが危ないの。」
俊作の握った右腕を振りほどこうとする絵里。
だが俊作は放さない。
「君は意識がなかったから知らないだろうが、ここは君を助けた地点からさらに南に二キロも下っている。しかもジャングルの中の迷路のような水路をカヌーを使ってだ。歩いてなんか戻れないぞ。」
それを聞いた絵里は動きを止める。
「ど、うしよう〜、おとうさん、死んじゃうよ〜…」
「しょうがないだろ、今の僕らにできることはない、相手は武装したゲリラだ、ここは政府軍に任せるしかない、すぐに連絡はつくよ、彼らに交渉は任せよう。」
「交渉って、そんな時間はないです、おとうさんはこれがなかったら一日が限界なんです。」
そういいながら絵里は、インスリンを抱きしめる。
「今日お父さんが忘れていったので、私がお弁当と一緒に届けたんです、そのお弁当も、ちゃんとカロリー計算して作れるように、お母さんから教わったし、わ、私行かなくちゃいけません、わ、私行かなきゃ、は、放して下さい!」
絵里の言葉に愕然としながらも手を放さない俊作。
ヘリが落ちてからすでに丸一日以上経っていた。
さっきからずっと絵里は、膝を抱えて顔を埋めたまま泣き続けていた。
絵里は必死で止める俊作の説得でようやく納得し、ジャングルに突入するのをあきらめたが、父を思う気持ちに変わりがあるはずもなく、悲嘆にくれていた。
そりゃあ俊作だって日本人だから、同じ同胞が困ってて、まして若い綺麗な女の子だったら何とかしてやりたいとは思わないでもないが、ちょっと問題が問題である。
俊作の方も命がけでようやくここまで来て、目標はもうすぐ目の前だったのだ。
出来るだけゲリラに見つからないように、ことを慎重に慎重に進めてきて、やっとその成果が得られそうなときに、すべてがおじゃんになりかねない事件に巻き込まれるなんて。
何せ相手は政府軍と戦争が出来るほどの軍事力を持つ反政府ゲリラなのである。
個人が戦える規模をはるかに超えている。
いくら俊作が拳法使いだとしても、訓練され、武装したゲリラ相手に喧嘩を売るなど、映画や漫画じゃああるまいし、できるわけがなかった。
それでも俊作の目の前で、膝に顔を埋めて泣き続ける絵里を見ていると、何もしてやれない、自分自身の情けなさに苛立ちを覚えるのであった。
「神様も試練好きだよなあ、たまには俺にもにっこり微笑んで欲しいもんだよ。」
ただ単に昆虫採集をしたいだけなのに、何でこんなにつらい目にあうんだろうと、心から『情けないよう』のへたれ顔をへばりつけて俊作はアンを磨いている。
熱帯雨林の夜は結構冷える。
俊作は毛布をそっと絵里の肩にかけてやる。
「もう、軍のほうには友人を通じて連絡が行っている、明日の昼には救出部隊が駆けつけ、交渉が始まるし、インスリンの用意も整えて来るそうだから……。」
すまなそうに俊作が声をかける。
すると、顔を膝に埋めたままの状態で絵里が言う。
「ありがとうございます。ほんとうに……何もかも助けていただいて……」
グスッと鼻をすすりながら、ささやくような声でつぶやく。
ゆっくり顔にかかる髪の毛を手でどけながら顔を上げる絵里。
「あの時、本当に、私もう絶対ハチに刺されて死ぬんだって思いました。目の前でゲリラの二人がハチに襲われるのを見ました。怖かった…」
「キラービーはよほどのことがないと敵を見逃したりはしないし、特にムーソ鉱山のあたりは、キラービーのコロニーがずば抜けて多いから、ま、運がよかったよ。」
「そういえばあの時、なにかとてもけむかったんですが何をされたんですか?ハチはなんで私たちを襲ってこなかったんだろう?」
思い出したように煙そうな顔をする絵里。
「スモークランチャーさ。」
俊作は焚き火のそばに置いた口径の広いライフルみたいな銃を取り上げる。
「スモーク…らんちゃー?」
「そう、コロンビアの森林歩兵部隊が装備する銃で、そもそもは信号弾や目くらましのスモーク弾を打つための銃なんだけど、中身のスモークにちょいと仕掛けをしたんだ。」
「しかけ?」
「そう、キラービーがムーソの近くにはたくさんいるのは分かっていたので、ミツバチを麻痺させるアルカロイドを含んだ、コロンビアニガヨモギの乾燥粉を材料に、キラービー制圧用の煙幕弾を用意してたんだ。ミツバチは煙に弱いからね。だから弾もまだいっぱいある。」
「あの恐ろしいハチにも弱点があるんだ。」
「そう、それもちゃんと自然の中にあるんだ。神様がすべて用意しているようにも感じられる、様々な問題を神様は僕らに提示しているけど、きっとこの大自然の中に必ず解答は用意されている、そんな気がするんだ。」
まるで少年のような目で話す俊作を絵里はとても不思議な気分で見ていた。
この人は本当に自然や生き物が好きなんだ、とても愛しているんだという事を、絵里はどきどきする胸の内の理由にも気付かず感じ続けていた。
「地元の人たちはニガヨモギのことを「トチトチ」と呼んでいて、昔からミツバチの蜂蜜を採るのに利用していたらしいけど、キラービーが現れて、今ではそれの防止用に使っているようだけどね。」
「そんなにあの蜂がたくさんいるんですか、この辺て……」
少し怖そうに周りを見渡す絵里。
「ああ、そのせいで、長いことムーソに政府軍が攻め入ることが出来なかったとも言われている。やつらが集団で襲ってきたら、たとえ火炎放射器でも防ぎきれないだろう。
逆に襲われてパニくり、味方を燃やしちまうのが関の山だね。」
手榴弾で自滅したゲリラの二人を思い出し、ぞっとする絵里。
「あのハチはそんなに恐ろしいんですか?」
眉にしわを寄せ絵里が聞く。
「ああ、やつらの集団攻撃にはまるで有効な防御手段がない。全身宇宙服みたいな防護服でも用意しない限りはね、でもジャングルでそんなもんを着たら、すぐに熱さで脱水症状を起こしてしまうよ。」
両手を上げて、まさしくお手上げのポーズをする俊作に、少し笑う絵里。
「なるほど、自然ってすごいんですね。それにしてもさすが専門家です、葉柳さんは自然をよく知っているんですね。こんな危険な森で一人きりなんて。私尊敬します。」
「はは、まあね、一応准教授だしね、教授になれるのも近いし。」
と、聞かれてもいないことを、つい綺麗な若い女の子に褒められて舞い上がり気味に口にした俊作だが、急に動作が凍りつく。
「ま、てよ、……自然の……ちから……」
「は…?」
「昆虫のスペシャリスト……」
俊作は視線を下にして、何か考えが浮かんだかのように右手でアゴを挟んだ。
「そ、うか、出来るかもしれない、くそ、何でそれに気づかなかったんだろう、そうそう、あれがいる。えっとハチ毒の血清は、えっと、どこに……」
何事かおもいついたように、俊作はテントの中をごそごそ探し出した。
作品名:私立小田原大学准教授 葉柳俊作 作家名:おっとっと