短編・『湯西川(ゆにしがわ)』にて 6~9
湯西川にて(8)別館の特別室
板前修業中の2年目の冬も終わり、
桜の蕾が膨らんでくると山肌に残った雪も、
ようやく溶け始めます。
桜の開花の様子と残雪が残る山合いの景観は、
湯治客には格別ともいえる目の保養になるようです。
例年を上回った「花見三昧」の賑わいが一段落すると、
温泉街は5月連休前の、しばしの閑散期に
ひたりはじめます。
連休前のイベントと料理の打ち合わせも終わり、
帰ろうとした矢先に、フロントで呼び止められてしまいました。
差し出された電話の相手は、本家・伴久の若女将でした。
「清ちゃんが、呑んで潰れてしまいました。
あんたでなけりゃ絶対に帰らないって、そりゃぁもう大変なの。
とりあえず部屋に閉じ込めたから、手が空いたら
迎えに来てくださる?
そう、助かります。」
伴久のロビーでは、
すでに照明を一段階暗くしていました。
大きなガラス越しに見せる、
手入れの行き届いた日本庭園でのライトアップが
始まったのです。
星空の下で、銀色に光る裸の梢(こずえ)には、
点々と新緑が萌えていました。
しかし湯西川で本格的に新緑が萌え始めるのは、
実は5月連休以降の話です。
それでも、ゆったりと窓辺に並べられたソファーには、
1組の初老の夫婦とポツンと離れた場所には、若いカップルが、
流れる時間を楽しむようにその庭園に見入っていました。
にこやかに寄ってきた若女将が、別館のカギを
手渡してくれました。
「ごめんね、別館の、
十二単(じゅうにひとえ)館の4階なの。
角部屋の、『うれし野』です。
後ほど、お伺いいたしますので、
よろしく。」
別館は、本館からは
30mほどの専用通路でつながった
鉄筋作りで、落成したばかりの4階建てです。
内部を純和風に仕上がられた十二単館からは、
平家の落人集落を目の真下に見ることができました。
しかしこの時間帯での館内は、
ひっそりとしていて人の気配が有りません。
空調の軽い響きが聞こえるほど、
どこまでも静寂につつまれた廊下が続いています。
作品名:短編・『湯西川(ゆにしがわ)』にて 6~9 作家名:落合順平