短編・『湯西川(ゆにしがわ)』にて 6~9
「智恵子は東京に空がないと言ふ、
ほんとの空が見たいと言ふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である」
大正3年に結婚した智恵子をうたった、
高村光太郎の「あどけない話」を、清ちゃんが口ずさみました。
洋画家を志したという智恵子は、どうしても
東京に馴染むことが出来ず、
一年のうちの3、4ヶ月を実家に帰っていたそうです。
また、その油絵もなかなか評価されることが無く、
智恵子は悩んでいたともいわれています。
光太郎によれば、
智恵子は素描にはすばらしい力と優雅さとを持っていましたが、
油絵具を十分に克服することが、どうしても出来なかったと言っています。
「東京に空がない。」という智恵子の痛切な訴えを、
光太郎は「あどけない話」として受け止めていたようです。
出発は早朝でした。
白い帽子に、
水玉のワンピースを着た清ちゃんは別人でした。
そのへんにいるOLさんの一人のようで、
いつも着物に隠されていた、すらりとしている白い足が
とてもまぶしく見えました。
「さぁて、3日間を、満喫しましょうね。
大好きな、千恵子と安達太良山に会えるんだもの、
今から、胸のドキドキが止まりません。
あなたにも、良い思い出が、
たくさん残るといいですね・・・」
なにげない出発時での一言だと、その時は聞き流してしまいました。
しかしこのひと言の中には、実は清ちゃんの深い思いが凝縮して
閉じ込められていたのです。
切れ長の目の奥には、もうその先の運命が
見えていたのかもしれません。
そんな深淵な意味には気がつかず、た
だ曖昧に受け答えてからハンドルを握りました。
快晴下での二人のドライブが、続きました。
「あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生まれたふるさと。」
「智恵子は本当の空が見たいという」
と高村光太郎がうたった安達には、
「智恵子抄」で有名な、高村智恵子の生家がありました。
智恵子が愛してやまなかった「ふるさと……安達」。
その純朴さを残す町並みの中に、一見、宿場を思わせるような
二階建ての造り酒屋がありました。
その屋号は「米屋」で、
売られていた酒の名は「花霞」です。
二階にある智恵子の部屋からは、
今にも智恵子が降りてきそうな気配が漂っていました。
表には格子戸を巡らして、軒下には杉の葉で作った新酒の醸成を伝える、
杉玉(酒林)が下がっていました。
裏庭には、
酒蔵をモチーフとした「智恵子記念館」が建っています。
そこには奇跡といわれる、智恵子の美しい紙絵の世界が広がっていて
人生の軌跡とともに、智恵子の精神世界が語られていました。
裏の丘陵地には、「智恵子の杜公園」がありました。
光太郎と智恵子の純愛が、
ここから育まれたのだと思わせるほど
優しい風と空が輝いている、広い大地がひろがっていました。
木陰を抜ける風の音や、木の香りに満たされた澄みきった空気だけが
何処までも雄大に広がっていく・・・
そんな想いが心にしみた風景でした。
清ちゃんは、
長い時間をかけて安達太良山を見つめていました。
鞍石山は、安達太良山と阿武隈川が同時に眺められる、
唯一の場所とされる景勝地でした。
そんな眺望の中、光太郎と智恵子の二人の姿を
思い浮かべながらの散策は、日暮れ近くまで
続きました。
作品名:短編・『湯西川(ゆにしがわ)』にて 6~9 作家名:落合順平