短編・『湯西川(ゆにしがわ)』にて 1~5
湯西川にて(3)金木犀(きんもくせい)の香り
9月生まれの清ちゃんは、
金木犀(きんもくせい)の香りが大好きでした。
初めて逢ったのも、濃い蒼空の下で金木犀が盛んに香る季節でした。
小学校の3年生の時に、母子家庭の転校生として
同じクラスにやってきました。
その日のお昼休みと休み時間には、一人ぽっちのまま
金木犀の花をを見上げていました。
今でもその時の光景だけは、なぜか鮮明に覚えています。
最初に声をかけたのは、レイコでした。
その日の下校時に、二人が仲良く並んで帰って行った姿も、
また、同じように記憶に残されています。
もの静かで、切れ長の目をしたお下げ髪の少女は、
次の日からは、いつもレイコと一緒に行動するようになりました。
運動が大好きで活発だったレイコに数歩遅れながらも、
校庭を駆け回るうちに、山の手通り界隈の女の子たちのグループの中に、
吸収されて、いつのまにか溶け込みました。
それから先の清ちゃんのことは、
いつも存在を意識していた様な気もしましたが、
なぜか記憶の中には何も甦ってきません。
中学の修学旅行で、
日光へ行ったとき、艶やかな芸妓さんたち一行と、たまたま
すれ違ったことがありました。
初めて見る花柳界の粋な姿に、清ちゃんが強い衝撃を受けました。
この時の出会いがきっかけで、清ちゃんは
芸妓なろうと決めたようです。
レイコから、芸妓になるという
清ちゃんのその決意を聴いたのは、もう、卒業式も真近になった
2月の末のことでした。
250名近い中学の卒業生の中で、
就職を決めたのは、30名余りほど居て、
ほぼ1割を超えた程度でした。
しかし、レイコと親しく遊んでいたいう
記憶はあるものの、中学時代の清ちゃんの面立ちや容姿が、
まったく記憶には残っていません。
「お別れ会は、どうするの?」とレイコに聞かれたとき、
何のこだわりも無く、即座に欠席を決めたことだけは気にかかりました。
が、あらためて訂正する勇気もなく、又その必要もないだろうと、
結局は、そのままにしてしまいました。
その清ちゃんと再会したのは、
それから5年ほど経った、市主催の成人式の時でした。
訪問着姿のレイコと談笑する、もう一人の背中姿を見たときに、
ふいに、あの時の甘い金木犀の香りを感じました。
レイコに促されて、
ゆるやかに振りかえった切れ長の清ちゃんの目もとには、
乙女をはるかに凌駕した、妖艶ともいえる目の光と
誘うような色香が宿っていました。
作品名:短編・『湯西川(ゆにしがわ)』にて 1~5 作家名:落合順平