充溢 第一部 第三話
第3話・2/4
それは輝いていた。宝石箱であった。
彼女の今まで生活に於いて、宝石箱は愚か、それに類するようなアクセサリーなどはなかった。せいぜい、試薬として用いる青や黄色の鉱石、作り出した結晶ぐらいであった。
物質や構造が同じものでも、結晶にもなれば、粉や泥にもなるのだ。
そもそも、この類比は、宝石と試薬を用いるまでもないのだ。緑錆の浮いた蛇口や、口の欠けたビーカー、匙で引っ掻き回したお陰で、傷だらけになったフラスコ――そしてこれらに物品がよく似合う貧乏臭い納屋を思い出せば、それだけで直ちに戦慄を憶える。
胸踊る、心弾む。呼吸乱れる。彼女は怪しんだ。死んでしまうのではないかと。
頭では分かっていたが、こんな身体の現象は初めてであったこと、こんな幸福が何の見返りもなく手に入れるなどとは、信じられなかったからである。
そこに至った瞬間、あのような不幸な環境で研究を続けた、母の後ろ姿が脳裏に思い出され、ひどく寂しい感情に襲われた。惨めな気持ちになった。
加えて、それを自分が使っていいものではないようにも思えてきた。怖くなってきた。
ポーシャによって、誤魔化されていたものが、ここに実物を伴い、襲ってきたのだ。
空気は張り詰めていた。
プリージが声を掛けるも、生返事しか出来なかった。
恐らく、自由にするがよいとでも言ったのだろう。プリージは静かに出て行った。
彼さえいなければ、緊張は和らぐか? 否。
何処までも緊張していた。空気が、筋肉が。
幾らか過ぎた頃だろう――いや、1分も経っていなかった――大胆になって、フラスコの端に触れる。ガラスが響く。
静寂が覆い被さってくる。
突然苦しくなる。沈黙に耐えられない。
何か音があれば、気は楽になれそうになった。音を立てるように歩き、扉を開き、あちこちを気持ち乱暴めに覗いた。
そうして、何か悪いことをしているのではないかと言う気持ちを消化しようとした。
「こんなものは、はじめの数時間のうちだけ」
手垢をつけて、慣らしていけば、すっかり自分のものの気分になれるだろう。
つぶやいた先から、また別の気持ちも沸き起こる。
今度こそ耐え切れられなくなって、往来へ出てみる。
扉を後ろ手に閉めて、寄りかかったまま深呼吸をする。
「何やっているんだろうなぁ」
反射的に我につぶやく――しかし、本当の気持ちは分かっている。
意を決して、もう一度踏み込み、大急ぎで鍵を探し……先生は、ここから奥へは行っていなかったはず。そして、立ち去り際に、何か、鍵のことを言っていたような気がする……ああ、あった。鍵掛けがすぐ横に。
鍵。何の変哲もない真鍮製の鍵。
真鍮は、その昔、錬金術師が金を模して作った合金。しかし、哀しいかな紛い物。金の深みはない。金は山吹色であって金色ではないのだ。
何か、皮肉な気がして――そんなことはないと言う根拠を、わざわざ、自分の中で反芻しながら、部屋を後にした。
「何をやっているのだろう」
再びつぶやく。
ここで、こうして恵まれた環境に置かれるのは、ある種の裏切りなのではないか?
馬鹿馬鹿しい事だと分かっている。拡張された被害妄想だ――人間は考えていることと、思っていることは別の回路を走っていやしないか――冷静に分析する頭脳は明晰だが、他のあらゆる部分が日差しを散乱して霞んで見える。
そうしたものは前後関係をぼやかし、後になれば、何を考えていたのかさえも思い出せなくなってしまう。
作品名:充溢 第一部 第三話 作家名: