王の光
ソフィーにナポレオンを見せられて、一週間が経った。この間、彼女はジルとの約束を守るためか毎日学校に来て、一日を過ごした。この一週間は目立った戦闘もなく、ずっとこういった日々が続けばいいのにと思わざるをえなかった。とはいえ、仮に戦闘があったとしても、それが「チェス」の出撃を伴うものであれば、彼は大喜びして戦果を確認するのであるが。
しかし今日、ついにソフィーは学校を休んだ。今まで三日以上連続して来ることがなかった彼女にしては大きな進歩で、ジルとしても今日の休みは仕方がないと思えた。むしろ、無理をして病気を悪化させてしまえば元も子もない。
「ジル! 行ったぞ!」
不意に聞こえた声へ視線を向けると、ボールが自分の方へ飛んできていた。考え事をしているときにパスを出すのはやめてほしいが、さすがにそれを言うわけにはいかない。ジルは仕方なく胸でそれを上手くトラップすると、右足で軽く浮かせ、距離を詰めてきた相手ディフェンダーの頭を越した。そのままそれを抜き去ると、彼は相手のゴールに向かって走り出した。
サッカーには自信があった。特にドリブルでは、同級生に負けることはありえなかった。
いつもの通り、相手のディフェンスをかわしていく。四人ほど抜いたところで、キーパーと一対一になった。
「ジル、こっちだ!」
味方からの声を無視し、彼はシュート体勢
に入る。彼が思いっきり蹴ったボールは、ゴールポストの遥か上を越えていった。
「だから、パスだって言っただろ」
「シュートだけは下手なんだよな」
「それさえ良ければプロにだって行けるってのに」
チームメイトの非難を聞きながら、ジルは顔をしかめる。レフェリーを務めている体育の教師も、苦笑いを浮かべていた。
その後、彼はゴール前でも味方にパスを出し続けて過ごした。記録したアシストは、一試合で四つだった。
これで今日の授業は終了だ。最後が締まらない終わり方だったが、切り替えようと努めた。今からあの小屋に行き、ナポレオンに餌をあげなければならない。
教室に戻り、制服に着替える。暑さのピークは過ぎたといえ、一時間動き続けた体は大量の汗をかいていた。それらをタオルで拭き、制汗スプレーを吹きかける。こういう日は、後ろにソフィーがいなくて良かったと思ってしまう。
そのとき、大きなサイレンが鳴り響いた。それは校内だけのものではないようで、どうやら街全体で鳴っているものが聞こえているらしい。ジルは、その音に聞き覚えがあった。しかし、ここしばらく聞いていなかった音だった。
「おい、これって……」
「ああ」尋ねてきた友人に対してジルは頷く。「敵襲警報だ」
ジルの声を合図に、教室中が騒然となった。開戦時に知らされた敵襲警報だが、これまで一度も鳴ったことはなかった。ジルが住むロストクは敵の領地と接しておらず、空襲もポーランドを通過してくるとは考えにくいものであったからだ。
警報が鳴ってからすぐに、廊下をバタバタと走る音が聞こえた。教師たちが対応に追われているのだ。ジルの教室にも、急いで担任が入ってきた。更衣室で着替えをしていた女子生徒らもゾロゾロと集まってくる。彼女らは一様に怯えた表情をしていた。
――ソフィーは、大丈夫なのか?
彼女は家で休んでいるのだろう。しかし、もし家族が全員家を空けていたら、自分一人で逃げられるのだろうか。様子を見に行きたいが、ジルは彼女の家がどこにあるのかを知らなかった。
教師から、学校の地下にあるシェルターへ避難するよう指示があった。開戦時に説明を受けたが、まさか本当に使用するとは思っていなかった。彼は頭のどこかで、自分たちとは離れたところで起きている戦争だという認識があったのだ。
ソフィーも上手く逃げられただろうか。それだけを心配しながら、シェルターへの道を歩く。しかしそのとき、大事なことを思い出した。
――ナポレオン!
さすがのソフィーも、彼――ナポレオンはオスだった――を助けにいくことはできないだろう。しかし彼のことを助けたいとは思っているはずだ。ソフィーが学校を休んでいるときは、ジルがナポレオンの面倒を見るというのが二人で交わした約束だ。
彼は列から外れると、どうしたのかと声をかけてくる同級生の声を無視して、急いで学校から出て右に曲がった。体育の後であるが、そんなことは言ってられない。腕を振り、ナポレオンの小屋へ向かう。一度しか通ったことのない道だが、彼はそれをしっかりと覚えていた。
走っていると、少し離れたところから爆音が聞こえた。今、本当にこの街で戦闘が行われているのだという認識が彼の中でされる。本当にソフィーは大丈夫なのだろうか。しかしそれを確かめる術はない。携帯端末で連絡したくても、彼女はそれを持っていない。
行く手に煙が見える。さらに進むと、破壊された家々があった。少し恐怖を感じながらも、彼は走り続ける。敵の部隊は防衛軍が対応してくれるだろう。今の自分にできることは、一刻も早くナポレオンを保護することだ。
十分ほど走ると、小屋に辿り着いた。周りの建物は壊されたものが多かっただけに、最悪の事態も想定していたが、それは元の状態を維持していた。さすがに疲れたが、今はわずかな猶予もない。肩で息をしながら、彼は小屋の中に入った。
相変わらず暗い小屋の中で目を凝らすと、影が見えた。ナポレオンかと思って注いして見るも、それは猫の大きさではない。人影だった。
「誰?」その人影が尋ねてくる。曇った声だと思うと、どうやらその人物はヘルメットを被っているようだった。唯一分かるのは、女性だということだけだ。
「あ、近くの高校に通う、クリューガーって言います。ここで猫を飼っていたので、様子を……」
「あなた!」その女性が驚いたように近づいてくる。「じ……自分は軍人です。ここは危険ですので、私についてきてください」
よく見ると、彼女は黒いパイロットスーツを着ていた。軍人というのは本当らしい。しかし、どこかで見たことがあるような印象を受けた。それは、彼女がジルを先導して小屋から出ようとしたときに確信に変わった。
黒いパイロットスーツに、ヘルメットから溢れた金髪がかかっている。その雰囲気は、女王――リア=ローランのものだ。
「ローラン中尉ですか?」
ジルの問いに、彼女は一瞬だけ答えるのを躊躇う様子を見せた。しかし答えないわけにはいかないと判断したのだろう。声は出さず、ただ頷いて見せた。
あの憧れていた「チェス」のメンバーにこんなところで会えるなんて、思ってもみなかった。これはナポレオンのおかげだと思ったとき、ようやく彼は自分がナポレオンを保護しに来たのだということを思い出した。ナポレオンは今、リアが両手に抱いている。
「あの、その猫……俺のなんですけど」
「え?」彼女は何故か驚いた様子を見せたが、すぐに彼を差し出してきた。「そうよね。これはあなたのよね。ごめんなさい」
「いえ、ありがとうございます」
「では、早く行きましょうか、ジル」
「はい」とジルは答えたが、何故か違和感を覚えた。思わず、彼は立ち止った。
「どうしたの、ジル。早く行か……」