王の光
廊下が騒がしい。ジルは何事かと扉に近づいて外の様子を窺うが、開けられないために音しか聞こえない。多くの足音が聞こえ、それはどうやら走っているようであったが、それ以上のことは何も分からなかった。
扉に身体を預けて注意深く外の音を聞いていると、一つの足音が扉の前で止まった。直後に扉が横にスライドして開き、ジルの身体は廊下へと飛び出した。
扉の前には自分を見下ろすソフィーがいた。おそらく彼女が扉を開けたのだろう。
「何してるの?」
「こっちのセリフよ。どうしてここで寝ているわけ?」
「急にドアを開けるからだろ」ジルは立ち上がる。「で、どうしてここに? 外が騒がしいようだけど、何かあったの?」
「ああ」何故ジルが扉の前にいたのかに気付いたのだろう、彼女は一つ頷くと答えた。「出撃命令よ。結構急だったからパイロットは少しバタバタしているわけ」
「ソフィーも出るの?」
「当たり前でしょ。だから、この子を預けにきたの」
そう言って彼女が渡したのは、ナポレオンだった。久しぶりに会った猫を、ジルは受け取る。ナポレオンもジルのことを覚えているのか、彼の腕の中で丸くなった。
「ソフィーが帰ってくるまでこいつと遊んでいればいいんだな?」
「この子のエサはジルの食事と一緒にユリアが運んでくれるわ。それをあげてちょうだい。それと……」
早口ではありながらも、ソフィーは長々とナポレオンの扱いについて語り続けた。病気になったときの発見方法に話の内容が移ったとき、ついにジルは彼女の言葉を止めた。
「それ、今は必要ないだろ。ソフィーが帰ってきてから教えてくれてもいいしさ」
「まだ分からないの?」ソフィーはため息をついて言う。「私はもう帰ってこないかもしれないのよ」
彼女の真剣な表情を見ると、ジルとしても理解せざるを得なかった。これは戦争であり、出撃した者が無事に帰ってくるという保証はどこにもないのだ。
アントニオが戦死した今、それは他のチェスパイロット全員がこれまでよりも強く感じているのだろう。それを分かっていないのは、ジルだけだ。
「分かった。でも、絶対帰ってきてくれよ。約束だ」
「もちろん、努力はするわよ。ロストクは私にとっても大事な場所なんだから」
ソフィーの言葉に、ジルの身体が震えた。もう一度、脳内で彼女の発言を繰り返す。聞き間違いではないだろう。念のために彼は尋ねた。
「また、ロストクが襲撃されたっていうのか」
「ええ。詳しいことは分からないけど、海上の防衛部隊が突破されたらしいわ。どうしてロイナ連邦がこのロストクを狙うのかは分からないけど、どちらにせよ私たちはそれを防ぐために全力を尽くすだけよ」ジルに配慮してか慎重に言葉を選ぶようにしてソフィーが答える。「だからジルは心配しないで。ナポレオンのこと、よろしく頼むわね」
最後にナポレオンの頭を撫でると、彼女はジルを部屋の中に押しやって扉を閉めるボタンを押した。扉が再び横にスライドして閉まり始める。それが閉まりきる前に、ソフィーは走り去った。
一瞬の迷い。だが、その一瞬でジルは決意した。
扉と壁の間に右足を入れる。それによって扉と壁の間に空間ができた。扉はまだ閉まろうとしていたが、足が邪魔してこれ以上閉まらない。
ナポレオンを部屋に放つと、ジルは両手で扉を押さえた。そして力の限り押し返す。少しずつではあるが、扉と壁の空間が広がっていく。ジルが通れる大きさにまで広がったとき、彼はスッと廊下に飛び出した。
ソフィーは部屋を背にして右へ走っていった。ということは、そこにザクールの格納庫があるはずだ。ジルは廊下に誰もいないことを確認すると、右へ走り出した。
息が上がるのは、久しぶりに運動したからだけではないだろう。見つかったら今度こそ殺されるかもしれないという恐怖感。それでもついに脱出できるかもしれないという高揚感。そして、心配しないでと言って出撃していったソフィーに対する罪悪感。様々な感情がジルの中で暴れる。
しかし、自分が住む街のことを、友人・家族のことを他人に任せられるほどジルは大人ではなかった。クラスメートだったソフィーが命をかけて戦うにも関わらず自分だけ結果を待つだけというのも、彼にとっては我慢できないことだ。
廊下は一本道となっており、迷うことはなかった。他の兵士とも出会わない。ソフィーと話している間に、もう全てのパイロットが出撃したのだろうか。ならば、彼女の後方にいる限り誰かに出会うことはない。
気を抜くことなく、しかし急ぎながら格納庫へ向かう。途中で、大きな音が聞こえるようになった。それがザクールの動く音だと気付いたジルは、さらに走るスピードを上げた。あとは音がする方へ向かうだけだ。
格納庫への扉は開いていた。出撃命令が出ているときはそうしているのだろう。作業員たちが多くいたが、彼らはそれぞれの仕事に忙しいようで、入り口から侵入してきた子供には気付かなかったようだ。ソフィーが最後なので、もう入り口を気にすることすらしなかったのかもしれない。
理由が何にせよ、それがジルにとって好都合であるのは変わらなかった。コンテナの陰に隠れながら、格納庫の中を窺う。走って逃げてもいいが、できることなら車をいただきたい。
そのとき、彼の目に一機のザクールが映った。格納庫の隅で放置されている真っ白な機体は、ジルが初めてこの「ルーク」に来たときに見てしまった新兵器に違いなかった。
たしか「キング」と呼ばれていたそれの近くには、どの作業員もいなかった。そしてジルの脳内に、一つの思いが浮かび上がる。
「あれの存在が、敵に知れたんじゃないのか?」
どうしてロストクが狙われるのか。それはキングの開発計画がどこからか漏れ、それを阻止しようとロイナ連邦が考えたからではないだろうか。スパイなど、どこにでもいる。ロストクの近くで開発していることがばれても不思議ではない。
そして、今キングの周りに誰もいないのは、既にそれが完成しているからではないだろうか。どういうわけか出撃していないが、まだ完成していないのなら作業員がいるはずだ。
「あれで逃げるか……」
あの機体が存在することでロストクが襲撃されているのだとしたら、キングにはその責任を果たす義務がある。ジルが逃走用に使用しても問題ないはずだ。ザクールの操縦については、オンブルで経験済みだ。さらにキングが既に開発されたことが敵に知れることで、もうロストクへの襲撃は終わるかもしれない。一石二鳥である。
自分に都合の良い理論を構築しながら、ジルは息を整える。今は焦る必要はない。先ほどまで走ってきた体力を回復させるのが先だ。キングの周りには誰もいないとはいえ、格納庫の隅にあるそれに辿り着くまでには、多くの作業員を突破しなければならない。作戦開始のタイミングは、全力疾走ができるようになってからだ。
恐怖感・高揚感・罪悪感を必死に抑え、ただキングだけを見つめる。間にいる作業員は四人。四人程度なら、サッカーボールを持ちながらでもかわすことができる。
「キックオフだ」
最後に一度だけ深呼吸すると、ジルはコンテナの陰から飛び出し、そしてキングに向かって一気に駆け出した。
「おい、誰だお前は!」