王の光
「敵機が撤退した。ロストクに残る敵影はない」
「了解しました」
クイーンオンブルに入ったルークからの通信で、ジルはアントニオの勝利を知った。思わず気が緩んでしまいそうになるが、機体のバランスが一瞬崩れたために慌てて持ち直した。敵から襲われる心配がなくても、今は一刻も早くルークと呼ばれる「チェス」の巨大戦車へと戻らなければならない。ソフィー=エッフェルは腕を怪我しているのだ。
それでも、広い高速道路であるアウトバーンを走行している今は、住宅街を走らなければならない先ほどまでよりも気を張らなくていいのは確かだ。ましてや、敵襲警報により一般車両は一台も走っていない。反対車線には被害を受けたロストク方面へ向かう救助用の車両多いが、ジルらが走っている車線では、比較的大きなクイーンオンブルが目立っている。
彼はチラリとソフィーの表情を窺った。アントニオの勝利に安堵したのは彼だけではないはずだ。久しぶりに晴れているであろう彼女の顔が見たかったのだ。
しかし彼女の表情は硬いままだった。
「どうかしたのか?」
ソフィーはジルの質問には答えず、通信の相手――おそらくはソフィーの父親であるテオドールだろう――に話しかけた。
「レアル大尉はご無事ですか」
「何言ってるんだよソフィー、大尉は勝ったってさっき……」
「大尉のヒネーテとは通信が繋がらない状態にある」
テオドールの回答に、ジルは言葉を失った。しかしソフィーは、まるでそれを予測していたかのような冷静さで再び口を開いた。
「パイロット生存の確率はどのくらいでしょうか」
「今救護班を向かわせているところだが、おそらくは……」
「そうですか。それでも敵機が撤退したということは、大尉は勝ったということですよね」
「おそらく、敵機の戦闘続行能力を奪ったのだろうな。だが、死ねば負けだ。まだ助からないと決まったわけではない。中尉は戻ってくることだけを考えろ」
「了解しました」
敵機の撤退を伝えられたときと同じ口調で締めると、ソフィーは通信を切った。だが、ジルが平常心でいられるはずがない。今度は先ほどよりもはっきりと機体が揺れた。それを直したのはソフィーだ。動く右腕でジルの右手を包み込み、バランスが良くなるよう操作したのだ。
「どうして平常心でいられるんだよ! もしかしたらレアル大尉は亡くなっているかもしれないのに……」
「おそらくはそうでしょうね。あの敵が今までのよりも手ごわいことは、私もよく知っているわ」
「ならどうして!」
「平常心でいられるわけないでしょう!」声を荒げたソフィーは、肩で息をしながら今度は静かな声で続けた。「これは戦争なのよ……。常にその覚悟はしているわ。もちろん私が死ぬこともね。司令の前で感情を殺すことくらいできなきゃ、やっていけない……」
最後の方は震えながら絞り出した声だった。ジルはもう何も言わない。密着する彼女の身体が小刻みに震えていることで全てを推し量った。
彼女の言うとおりだ。今まで他人事のように近かった戦争が、住んでいる地域を攻められたことで一気に現実味を帯びた。戦闘への参加はその極め付けだ。いつ死ぬか分からないという状況下で、彼女は言ままで生きてきたのだ。
彼は右腕に力を入れた。今は彼女の腕を借りるわけにいかない。時折言葉を詰まらせながらも道案内を続けてくれるソフィーに従い、彼はただ黙って操縦を続けた。
操縦していたのはおよそ十分ほどだっただろう。ロストクから南東へ約一五キロメートルほど離れた町であるドゥンマーシュトルフの陸軍基地に、遊撃部隊チェスの移動司令部であるルークは駐在していた。
戦車とはいったものの、その高さはおそらく十メートルを越えているように見えた。陸上を走る戦艦ともいえる風貌だが、その大きさで果たしている役割は、むしろ空母のそれに近いようだ。もっとも、航空母艦ではなく戦車母艦であるため、「車母」と表現するべきかもしれないが。
「これが、ルーク……」
「ええ、格納庫にオンブルを入れるのは、私一人でも行えるわ。ありがと」
ソフィーはそう言って、再び右側の操縦かんをジルから奪った。彼は抵抗しない。細かい作業は彼女に任せる方が良いのは明らかだ。力が入らずにダランと下がっている彼女の左腕を見ながら、彼は唇を噛んだ。
オンブルの動きが止まると、ソフィーはいくつかのボタンを押し始めた。ガクンという衝撃の後で、コクピットがゆっくりと降りていく。そして彼女に促されるまま、ジルはコクピットから地面に降りた。
格納庫には、今彼らが乗ってきたオンブル以外にも、多くのザクールがあった。ポーンと呼ばれる量産型のそれだろうとジルは判断する。しかし、一機だけ他とは違う雰囲気のものがあった。その白いザクールに、彼の目は釘付けになった。
「あれは何?」
「あれって……」ナポレオンを右手で抱きながらコクピットから出てきたソフィーは、ジルの目線を追ってから答えた。「ああ、キングね」
「キング?」
ジルが聞き返した瞬間、明らかにソフィーの顔つきが変わった。失態を犯したとでもいうべき険しい顔だった。「気にしないで。忘れてちょうだい」
そして彼女は歩き出す。整備兵らが敬礼する横を軽く会釈だけして過ぎていくその様は、かっこいいとしか表現できないものだった。彼女のパイロットスーツを押し上げる胸の主張は、ナポレオンが入っていた先ほどまでよりも弱く感じる。
ソフィーは何故、白いザクールについて話すのを嫌がったのだろう。彼女の後ろを歩きながらジルは推理する。やはりアントニオが関係しているのだろうか。チェスのザクールは全て白か黒かの塗装だが、その中でもやはり白といえばアントニオ=レアル大尉だろう。もしかしたら、彼のために作っていた新型なのかもしれない。彼の生還が難しい今、それはソフィーにとって考えたくないことなのだろうか。
「この子、持っていてくれる?」
「え、ああ。分かった」
階段を上り、司令室と書かれたドアの前で、ソフィーからナポレオンを受け取る。そして彼女はドアを開けた。ルークのブリッジなのだろう。様々な機械が置いてある状況に、ジルは再び目を輝かせた。
「ローラン中尉、ただいま帰還いたしました」
ブリッジの真ん中にある椅子に座っている男へ、ソフィーが敬礼をする。まだ彼女の本名がリア=ローランであることにジルは慣れない。
男は椅子から立ち上がると、ジルたちの方へ歩いてきた。その軍服から、彼が軍の中でも高い位置にいることが分かる。これがテオドールだとすぐに理解した。
「救護班によると、今のところロストクで民間人に死者は出ていないそうだ。よくやってくれた」
「レアル大尉は……」
「ロストクでの唯一の犠牲者だ。救護班が先ほど連絡を寄越してきた」テオドールの言葉にソフィーが顔を青ざめる。それを一瞥し、彼は次にジルへ視線を向けた。「彼が、中尉が救助したという民間人か」
「はい。一人でいたところを偶然発見し、保護しました。ジルヴェスター=クリューガー君です」