ヴァーミリオン-朱-
第1章 還りし朱
《1》
夢殿を奇怪な地震が襲った頃、東京湾の上を浮かぶ豪華客船では、海上パーティーが開かれていた。
シャンペングラスを片手に、着飾った紳士淑女がおしゃべりの華を咲かせ、楽団のメロディーに合わせて優美なシルエットがダンスを舞う。上流階級の人々が集まっていることは、ひと目でわかる。
頬を赤らめたタキシード姿の男は、女の腰を優しく抱きながら、潮風を浴びて海を眺めていた。
男は海に浮かぶ明かりに気付き、傍らの女に教えるように遠くを指さした。
客船に迫って来る眩いライト。それも一つや二つではない。ジェットスキーを引き連れた小艇が向かって来る。
ライトは客船ではなく、海面を荒立てて進む波を照らしていた。
仄暗い海から伸びる危機という名の長い触手。
危機に気付いたタキシードの男は刹那、海から飛び出した触手に胴を掴まれ、その近くにいた女性が甲高い金切り声をあげた。
悲鳴を聴いた人々は眼を剥き、海から這い上がって来た幾本もの触手を凝視した。長く伸びた白い烏賊(いか)のような触手が、蠢きながら踊っているではないか。
触手に巻き付かれ、高く掲げられた男が短く絶叫を漏らし、人々は眼を背けながら各々に逃げ出した。
パーティー会場は一瞬にして惨劇の宴に変わってしまった。
真っ赤な鮮血が女の顔とドレスを彩り、足元に転がって来た男の生首を見る間もなく、女は触手に締め上げられ、海の底に引きずり込まれて消えた。
ひと足遅れで、妖物を追って来た艦艇とジェットスキーが到着し、客船の周りをライトで照らしながら取り囲んだ。
海上を走るジェットスキーヤーの暗視ゴーグルがなにかを捕らえる。
空間にできた傷が叫び声をあげた。
広がった次元の裂け目から黒い影が飛び出し、ジェットスキーが走っていた真横に水飛沫を上げて落ちた。
――いったいなにが?
次の瞬間、ジェットスキーヤーの躰に細い糸が巻き付いた。気付いたときにはジェットスキーヤーは後方に飛ばされ、操縦者を失ったジェットスキーは妖物の触手に当たって爆発炎上してしまった。
焼けた烏賊の香ばしい匂いがする。
妖物が次の獲物を狙おうと触手を振り上げた刹那、その触手に海の底から奔った輝(き)線(せん)が巻き付き、触手を振り下げたと同時に海面から黒い影を釣り上げたのだ。
黒い魔鳥のごとき人影は、水飛沫を散らしながら軽やかに客船に甲板に降り立った。
逃げるのに必死だった人々が行動を忘却し、突如として現れた人影に視線を奪われた。
赤黒いローブから紅い雫がボトボトと零れ堕ちている。
血の香を纏った若者。
塩水に濡れた髪を掻き上げ、若者は艶やかな口で宣言する。
「……俺は還って来た」
それは遥か遠い銀河から帰還したような口ぶりだった。いや、真実はもっと遠い場所と言えるかもしれない。この者は?向こう側?の世界から、空間の断ち割って還って来た?還り人?なのだ。
すでに艦艇は妖物への攻撃準備を整えていたが、乗客がいるために迂闊に手を出さないでいた。
そのことは?向こう側?から還って来た若者には好都合だった。?向こう側?で磨いた技が、?こちら側?の妖物にも通用するか、小手調べにはちょうどいい獲物だ。
血の香を放つ赤黒いローブに誘われるように、数え切れない触手が若者に襲い掛かる。
「喰うか喰われるか、貴様を喰うのは俺だ!」
絶叫する若者の右手から輝線が次々と放たれ、触手が空中で細切れにされていく。
まだ海の底で全容を見せぬ妖物の触手は、次々と海面から魔の手を伸ばし、斬られた触手もすぐに新しいものに生え変わる。これでは切りがないが、若者は余裕の笑みを浮かべていた。
「指のストレッチはおしまいだ、少し本気でいくぞ」
若者は指揮者のように両手を動かし、放つ輝線は闇色に変化した。
斬り飛ばされた傷が再生しない。それどころか傷は、紫に色に変色して腐りはじめていた。
触手を斬るたびに鮮やかな血が飛び散り、返り血を浴びたローブがさらに血を吸って濃く染まる。赤黒いローブの意味はここにあり。
何十本もの触手を瞬く間に切り刻み、無限とも思えた触手が海面から伸びることをやめた。
静まり返っている海面。
数秒の時が流れ、冷たい潮風が若者の頬を撫でた。
爆発した水飛沫が天を突く。
土砂降りの塩水を浴びながら、若者は妖物の本体を見定めていた。
全身の触手を切り刻まれた妖物は、タワシのような格好をしており、その中心には硬いものを砕く歯が円形に並んでいた。
若者が仕留めるよりも早く、海の底から空中に飛び上がった妖物は、艦艇から撃たれたミサイルを喰らった。
妖物が空中で大爆発を起こし、甲板の上にまで血肉を四散させた。
瞬時に甲板に伏せていた若者が吐き捨てる。
「クソッ、俺の獲物を……」
最後に獲物を横取りされた。悔しさが若者の口調から滲み出していた。
若者は立ち上がると同時に自分が細切れにした肉片を拾い上げ、野獣のように生肉に噛り付いた。
「こっちの肉は俺の口には合わないな」
肉片を投げ捨てた若者の顔に、艦艇からスポットライトが当てられる。
目を細める若者の顔は中高生くらいだろうか。ただ若いだけではない中性的な妖艶さを兼ね備え、深い闇を湛えた黒瞳には魔力が篭っているようだ。
スピーカー越しに若者へ質問が投げかけられる。
「お前は何者だ!」
妖物を相手に戦った若者がただの人であるはずがなかった。
若者は口も元を艶笑させた。
「闇の傀儡士(くぐつし)――呪架(じゅか)」
そう答えた呪架は艦艇から目を離し、なにかに誘われるように宇宙を見上げた。他の者も同様になにかに誘われて?それ?を魅た。
遥かな彼方から、煌く尾を引きながら堕ちて来る物体――〈箒星〉だ。
大気圏で燃え尽きる流星が多い中、その〈箒星〉は確実に地上まで到達すると推測された。
煌きは煙の尾に変わり、〈彗星〉はついに地上へ落下した。
抉られた大地はドーム型に爆発を起こし、閃光が夜を一転させて昼に変える。
〈彗星〉が落下した方角は死都東京。復興作業が順調に進んでいたが、あれでまた瓦礫の山と化してしまったに違いない。
人々の感じた胸騒ぎは正しかった。
――来た。
女帝は〈箒星〉の落下をベランダから見届け、そのまま想いに耽っていた。
部屋の奥から人影がそっと女帝に近づく。
振り返った女帝の瞳に映る翼を背に生やした麗人――ズィーベン。翼は鳥のような羽根で覆われ、左右の翼は白と黒の非対称の色をしていた。
眼鏡と一体化したイヤホンを直しながら、ズィーベンは真摯な眼差しで女帝を見据えた。
「あの隕石は突如として地球付近に現れたそうでございます」
「そっかァ、なっるほっどねぇー」
大人の色香を漂わす容貌とは裏腹に、女帝の口調はまるで少女か少年のようであった。
女帝は天を仰ぎ、親指の爪を噛んだ。
思考を巡らす女帝。
地球上空に突然現れたことから、ただの〈彗星〉とは考えにくい。星術師ですら、落ちる寸前に気がついたくらいだ。
ズィーベンは女帝の微かな想いを読み取った。
「なにかお心当たりが?」
「まァねー」
作品名:ヴァーミリオン-朱- 作家名:秋月あきら(秋月瑛)