認定猶予 -Moratoriums-
深夜。倉庫街には絶えず波音が寄せていて、積み上がったコンテナの間を抜けて、潮風がその仄暗さを彼女の元へ運んでいた。
コンクリートで固められた足場。錆びついて半分開いたままのシャッター、腐食した壁の穴。その隅々までを月影が染め上げている。
「ハル」
波音に耳を澄ませる少女の背中に、男が声をかけた。名前を呼ばれた少女は、落ち着いた表情で彼を振り返った。
「何してるんだ」
「月を見てただけです」
そして尚も空を仰ぐ少女の脇に、白城は爪先を並べる。すぐ側にあったアンカーに腰を掛けて、黙ったまま同じように世界を眺めた。
「あの人、ちゃんと奥さんのところに帰れたでしょうか」
波間に響く、独り言に似た彼女の言葉。白城はちらりと表情を窺って、
「大丈夫だろ。敗因は、分かっていなかったってことだけだから。愛する人の傍に居られればもう迷うこともない」
フィルターから唇を離し、持ち替えた指先で揺蕩う白い筋を目で追いかける。この味を思い出すには、自分達の街へ帰らないといけないけれど、今はもう少し、こうして海を味わうのも悪くないと、ふいに思った。
「沙月も言ってたけどさ。死者と生者の違いなんて俺達にとっては些細なものなんだ。何を持って死とするか。何を持って生きていると定義付けるか。本当は表裏なのかもしれない」
掲げた紙巻き煙草で示すのは、海の果てに浮かぶ銀色の深淵。悠花は白煙に導かれるように深い空の色を見る。
「月の裏側、ですか」
白城が頷く。
「そういうことだな。俺達は、生きてるか、死んでるか? 生の定義が魂の所在なら、俺達の存在はどうだ? どうして今ここで月を見ていられるんだ」
悠花は黙ったまま、今の自分にその問いに答えられるだけのものが無いことを噛みしめていた。情報屋のように境界について詳しいわけでもないし、白城や灯のように『向こうの世界』に留まっている期間もあまり長くない。
何より、生者として得た時間そのものが少ないのだ。彼らにさえ出せない答えを、自分自身が探し出せる筈もない。
「取るに足らないことなんだよ。無意味だし、何より、思い悩むのは有意義じゃない。そういう意味では、俺達は恵まれてるのかもな。もう悩む必要はない。自分の欲するものだけを選び取ることが出来る。ただ、悩むことが好きで、それでも納得出来ないなら、ゆっくり考えればいい。なに、時間だけは腐るほどある」
白城が掌を開いたせいで、それは波に触れると同時に掻き消えて無になった。こうして彼らの手放したモノは、いつか向こう側のあるべき場所に戻る。こちら側には何も残すことは出来ない。白城にすらその仕組みは理解出来ていなかったが、そういうものだと割り切ってしまえば不思議でも何でもなかった。
悠花は暫く月を眺めていたが、やがて思い至ったように白城のほうを振り向いた。
作品名:認定猶予 -Moratoriums- 作家名:篠宮あさと