認定猶予 -Moratoriums-
二人は海辺を歩いていた。海岸沿いに張り巡らされた落下防止のフェンスは途中で大きく破れていて、その傍らに真っ白な花が手向けてあった。
それを横目で見ながら埠頭へ向かう。ひと気は殆どなかった。お陰ですぐ、波消しブロックの上に座っている人影を見つけることができた。
「ムトウヒデトさんだな」
振り向いた顔は見覚えがあった。何度も目を通した、探し人のデータの中には写真も含まれていた。
男はゆっくりと振り返る。何の感情も窺えない、疲労と途方に暮れたその虚ろな色。
「誰だ、君は」
時折彼の足先が波に触れる中、白城は慣れた風に首を傾げるポーズを取った。
「別に、ただの人探しをやってるもんだよ。そして、俺達が今探してるのは、まさにあんただ」
両手さえズボンのポケットから出さないまま。それからやっと、思い出したように自身の象徴でもある紙巻き煙草を咥える。
「お前の奥さんが探してる。非公式だけど捜索願いがあってね」
「妻が……?」
潮風に掻き消される。真っ白な煙が、灰色の空に溶ける。
「そうだよ。面会に行ったら既に姿が無かったって、名簿を何度確認しても、あんたの名前が抜け落ちてることに気付いたらしい。早く戻ってやるんだ。手遅れになる前にな」
「冗談はやめてくれ。妻がそんなことを言う筈がないだろう」
男は初め、突然現れた奇妙な男の話をぼんやりと聞いていたが、やがてその内容が不可解であることに眉を顰めた。そして果てには、妻の話題を出す煙草の男に不快感さえ示した。
やや強い口調の否定。幽愁さえ感じられる鋭い目。男は遊ばせていた足で立ち上がり、白城に侮蔑の眼差しを投げた。
「だって、そうだろう。もうずっと会ってない。当たり前だ。あいつはもう5年も前に先立ったんだから」
男の声が波の上に反響する。それは白城と悠花の聴覚をも鋭敏にさせて、まるで彼の言葉だけが海の世界のすべてかのように透き通り、響き渡った。白城の数歩後ろで悠花は指先の震えを握り締めて堪え、男は尚も言葉を吐き棄て続ける。
「悪いが帰ってくれ。私はもう少し此処に居たいんだ。もうずっと海を見てる。いくら見ても飽きないんだ。此処は家内との思い出の場所でね」
船着場のコンクリートの上で、男が笑う。愛おしげに、懐かしむように。靄で海の果ての水平線など見えもしないのに、その先にある楽園を、妻のいる日々のことをじっと眺める。
蜃気楼を打ち破ったのは白城だった。彼だけは眉根ひとつ動かさないまま、淡々と、男の戯言に耳を貸していた。
癖のように吸っていた煙草は無味だった。先端は赤く照ることもなく、それでも立ち上る煙を現実のことのように眺めた。
「いい加減認めなよ。あんたはもう死んでんだよ」
覚悟していたように、悠花の指先にまた力が籠る。男の顔色が変わった。
「見ただろう、あの突き破られたフェンスを。まだ直されてもいない。車は引きあげられてもう無いが、この光景に覚えはあるだろう」
咥えた煙草は吸えど吐けど味がしない。この世界では呼気の概念が違うからだ。こんな場所に男は紛れ込んでしまった。悲しくも独り、自分の知り得ないままに。
「何を、馬鹿な。だって、私は現にこうして――」
その言葉尻をついに遮る。そして真っ直ぐな目で男を、影の落ちていない男の足元を見詰める。
「馬鹿じゃねーよ。とっくに死者なんだよ。俺もあんたも、この子もな」
そして自らの足元にさえ、そんなものは落ちてなどいなかった。
咥えただけの煙草から、ゆらゆらと煙だけが立ち昇っていた。
作品名:認定猶予 -Moratoriums- 作家名:篠宮あさと