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認定猶予 -Moratoriums-

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「こっちはこっちで、情報を集めないとな」
 錆びの目立つ事務所の扉を、まるで何日ぶりかという思いで引き開ける。
 相変わらず紙の溢れた部屋。それも古新聞や、昔に扱った『事件』の記録媒体ばかり。本当は捨ててしまって構わないものだらけだけれど、もう何年も片付かないままでいた。
 悠花が此処に来てからも日々目にしている光景は変わらない。スチール棚や書類ラックに形ばかりも整理されたものたち。使っていない事務机の上に重なったファイル。けれど、それに不必要に触れることはない。彼女は彼女なりに弁えているのだ。
「とはいえ、まずは小休止だ」
「はい」
 白城が新聞の一部を手に取ったのを見て、悠花は給湯室へ向かった。
 珈琲を入れるのは彼女の仕事だった。サイフォンにフィルターをつけて、豆を計る。深い暗褐色が綺麗に出るのを待ち、彼の愛用のカップに一杯を注ぐ。
 丸盆を抱えて事務室を見渡せば、白城は来客用ソファの背の側に腰を預けて棚の新聞を漁っていた。
 先刻の新聞はテーブルの上においたまま。悠花は少し考えて、事務机の横を回って彼の居るソファへと近づいた。

 いつもの彼女なら、こんなに手狭な動線であっても難なく掻き分けて通れるはずだった。けれど悠花は自分の違和感に気づいていなかった。頭痛を覚えるのは久々で、同時に慣れた感覚で、だからその痛みが意図するものが判らなかった。
 珈琲を、と口に出しかけた瞬間、重く引きずった左足を、床に積み上がっていたファイルに阻まれる。上手く避けることが出来なくて、戸惑って手をついた机の上にまた別のファイルがあった。
 滑り落ちる紙の束。頼みにしていた先が崩れて、重力のベクトルに従って体が傾いだ。
 とっさに両目をきつく閉じる。けれど、覚悟していた床の冷たさも紙に埋もれる感覚も訪れない。代わりに少女の鼓膜を震わす穏やかな声。

「大丈夫か?」

 開きなおした瞳の端で捉える、床に転がったマグカップ。
 散らばった古新聞。右肩と腰の辺りに、苦しいくらいの圧迫。煙草の匂い。
「あ……はい。すみません……」
 やんわりと開放されて、自分を支えてくれたのが白城だったのだと気づいた。消え入るような返答に、前髪に隠れてしまった表情に、白城が苦笑を溢す。それから、あーあ、と息を吐いて、
「珈琲。せっかく淹れてもらったのにそっちまで手が回らなかった。ごめんな」
「そんな、私が、ぼんやりしてたから」
 ぱっと振り仰ぐ薄い色の瞳。ふるふると揺れる肩にかかった髪。少女はくるりと背を向けて、
「すみません。今片付けます」
「いいよ、俺がやる。それより、あちこち引っ張りまわされて疲れてるんだろ」
 布巾を取りに帰るその肩を捕まえて、落ち着かせる。声をかければ、悠花は不思議そうに見上げてくる。
 けれどその目は、やはり緩慢で重たそうで。
「そんなこと、」
 一瞬だけ合った視線が離れたので、言い聞かせるように覗き込んだ。捕まえていた手を放す。ゆっくりと繰り返す瞬きと、深めの呼吸。それが疲労だと、悠花はまだ理解していない。
「ほら。瞼、重いだろ」
 気まずそうにまた視線をそらそうとするのを、ふっと微笑んで留めた。それでやっと納得したのか、明らかに根を詰めていた肩をやっと下ろした。
「少し休め。俺はまた出てくる。何か困ったことがあったら灯と連絡を取れ。いいな?」
 幼子にするように頭を撫でてやる。嫌がられるかと思ったが、良いようにされているようなので、そのまま二度三度と繰り返した。そうすれば、撫で付けるリズムに合わせて更に瞼の動作が遅くなる。
「……白城さんは……?」
 生理的な意志に抗うようにして声を絞り出す少女。そうしていれば本当に年齢よりもずっと幼いように思えて、白城は一層声の響きを優しくする。
「すぐ戻るよ」
 無言で頷いた様子を見守って掌を離す。ちらりと見上げ返された瞳が不安そうにも見えて、もう一度手を伸ばして、微笑んだ。
作品名:認定猶予 -Moratoriums- 作家名:篠宮あさと