Twinkle, Tremble, Tinseltown 3
回転椅子から突き出された尻から視線を剥がし、レスは吐き捨てた。窓の方に視線を逃がすと、曇ったガラスの向こう側で赤い魚が無気力に揺れていた。群青の空と白けた通りの間、檸檬色の日差しの中を、レッドスナッパー・ダイニングの文字と共にたゆたっている。看板はその職務をまともに果たしていなかった。手招いても誰も来ない。夜になったところで、彼が輝くことはできない。心無い酔っ払いを始めとする人生を真面目に生きていない人間にネオンを叩き割られたせいで、輪郭すら今にも風化してしまいそうだった。
「女が気に入らないなら」
強い風がブリキの板をもみくちゃにする。その光景から、レスはいつまで経っても目を離せないでいた。
「親父でも呼べってか」
拗ねた子供以外のなにものでもない口調に、ラビーはいつもの如く呆れて肩を竦めるしかなかった。
「来ないだろ。一本の映画に1000万ドル貰ってる人間が。こんなスナッフ映画に」
「スナッフじゃない。誰も殺してないんだ」
ふうっとカフェイン臭い息を吐き出したレスも、自らの冗談にうんざりしていた。
「分かったよ。最初の部分は全部切る。でもそうなると、再生時間が3分の2位になるぜ」
「かまやしないよ。余計なもんはないほうが売れる」
ラビーはもう、椅子の背に掛けていたスプリングコートを取り上げていた。
「どうせあんなところ、あっても早送りするんだから」
引き抜かれたUSBメモリーをポケットに落とし、伝票を掴むのはまさしくお茶を濁すため。文句を付けつつも、ラッシュ映像は今晩彼の弟に供されるのだろう。引きとめようとしたレスは、すんでのところで言葉を飲み込んだ。用事など何一つない。そう、レスはこれから、何一つ予定がなかった。動画の編集はまた明日。すっかり慢心してデジタルカメラを友人に返してしまったのが運のつき。かといって自分用の物を買い揃えることだけは、プライドが許さなかった。
「そういや、このチェーンソー振り回してる奴」
ふと思いついたのか、ベルのついたドアを潜ろうとしたラビーが足を止めた。顔を跳ね上げたレスの眼をまじまじと見つめ、コートのポケットを叩いてみせる。
「ドク?」
「ああ」
自分でも分かっている未練がましさを宥め、何気ない顔を作るためにコーヒーを一口。ついさっきまで舌を火傷しそうな程だったのに、もうカップの中身は味気なく冷えていた。
「死ぬほど嫌がってたけど、あいつも結局がめついだろ。弟の病院とか。あの後、自分の膝切り落としそうになってたくらいで」
「そうか」
まるで自然な口ぶりで、大変だな、と呟く。
「膝は無事だったのか?」
「ちょっと掠った位。血は出てたけど。映ってたんじゃないか」
「そこのところは残しとけよ。目玉になるかも」
バナナサンデーを迎え入れるべく身を屈めた女の胸を覗き込んでから、ラビーはレスの腹を指差して見せた。
「完成したらまた連絡くれ」
ちりんと音が鳴って、店の中に沈黙が戻ってくる。どうせタダなのだ。本当はもう一杯位コーヒーを飲んでいってもいいのだが、今までの物騒な会話などなかったことにされている空間にこのまま居座るのが嫌で、結局レスはラップトップを鞄に戻した。早く出るのは得策ではないと分かっているにもかかわらず。何をしたら良いか、本当に分からなかった。自らの太腿に切りつけた間抜けなマッド・サイエンティストのところにでも行って時間を潰すくらいしか思い浮かばない。金銭に汚いのは事実だが、本当の彼はヘル・メンゲレとは似ても似つかない性格だ。飲み損ねたコーヒーくらいは出してくれるだろう。
立ち上がった気配を感じたのか、意地汚くスプーンを嘗め回していたクリスタが声を上げた。振り向きもしない。
「お父さん、出てくれるんじゃない?」
一瞬で場が凍りつくような睨みを利かせてもどこ吹く風。クリームを味わう顔は、ささやかな憂さ晴らしの瞬間を心底から楽しんでいる。アイスクリームはオーガズムのような恍惚を呼ぶが、その逆は滅多にないことを女は経験上良く心得ていた。
「この前テレビで掛かってた映画……『ハウリング・マッド』だっけ? あれですっごいサイコな役やってたじゃん。受けてくれるって」
「知らねえよ」
一緒に見ていたことを知りながら、それ以上はことを荒立てる気はないのか、黙ってまたスプーンでアイスを掬う。皿の中に垂れてしまいそうな髪を掻き上げ、わざと澄ました顔を作って見せるのは明らかに機嫌が悪い証。図星をさされて余程腹に据えかねたらしい。もちろんレスが否定しなかったことにも。
『ハウリング・マッド』の女を吊るして殺す役どころか、世界を救う銀行員の役も、アメリカを横断する刑事の役も、彼は台詞をそらんじることが出来るほど繰り返し見ていた。幾つかの台詞はそらんじて言えるほど。小さい頃からテレビの前で賞賛し、映画館で憧憬を抱いた勇ましい姿。焦げ茶色の豊かな髪と同じ色をした凛々しい瞳。がっしりと逞しい体躯。爽やかな声。
彼がレスの顔すら知らなくても、レスは彼のことをよく知っていた。まるで身近に暮らしていたかのように。
「あ、それともあんたが出てもいいんじゃない。後姿だったら絶対分かんないよ」
よっぽど手が飛びそうになったが、ぐっと息を飲み込むことで耐えた。視界の隅で、壊れた魚の看板が躍る。畳み掛けるように続く言葉に押されるよう、揺れはますますひどくなるばかり。今にも外れて飛んでいきそうだった。
「中途半端にしてないでさ。トラック運転手だけでも食べていけるのに」
「はっきり言えよ。ギャングの情婦の方がいいって?」
「かもね。でも無理よ。どうせなる勇気なんかないでしょ」
言い返すことも出来ず、そのまま乱暴にドアを押し開く。火照った耳の奥ではベルの音も聞こえない。
風は強かった。魚が振り回されるのも仕方がない。だが成す術もなく風に煽られている看板の姿は見ていて腹が立つし、先ほどから集中力を散々妨げてくれていた。いい加減、修理にでも出せばいい。だがレスがこの店へ出入りするようになって以来、結局ネオンは割れたまま。昼間も特に目立つわけでもなく、新規の客一人を呼び込むことも出来ないでいる。こんな下町のダイナーに客が来るはずがない。それでも虚しく、どぶ臭い空気の中を泳いでいる。
錆びた金属の擦れ合う音が癇に障る。いっそのこと完膚なきまでに叩き割ってやろうとすら思った。だがそんなことをして何になると言うのか。かっと頭に上った血が、冷たい秋風に嘲笑されて一瞬にして熱を下げる。
こうなったら是が非でも今日中に編集を終わらせてしまわねばならない。駆られた鬱屈に促されるよう、レスは道を駆け出していた。