マリッジ・ブルー
夏美は過去を引きずって生きている。しかしそれは不毛な憧憬だ。もちろん彼女はそのことをよく理解している。だから苦しいのだ。そして僕はというと、現状の生活から逃避したいという漠然とした思いを抱えて、過ぎ去った日々と何ら確実性のない未来との間をあてもなくふらつき回っている。不毛さのレベルでいえば負けていない。つまり僕たちは程度の差こそあれ似たもの同士なのだ。だからこそ軽はずみなことは言えない。
ただ彼女に伝えてやりたいのは、中澤の結婚式を見ている限り、中澤は夏美と結婚する運命ではなかったということだ。あいつは自分にふさわしい女性と出会ってさっさと結婚してしまった。今も楽しく暮らしているだろう。
もちろん、そんなことは口には出せない。
僕はため息をついた。
すると夏美は空を見たまま僕に聞いてきた。「私、ほんとうに結婚を決断していいんでしょうか? 出会って半年の人と、これから一生過ごしてゆく決断を下してもいいんでしょうか?」
僕はさっきからずっと手にしているワインをあおった。そして言った。
「いいと思う。さっき夏美は、その人のことを、誠実で一緒にいて安らげる人だと言ったよな。夏美の感覚が間違っているとは思えない。きっとその人は君を大事にしてくれるんだと思う」
僕には彼女の涙が見えた。
「ありがとうございます」と夏美は声を震わせた。それからしばらくの間、僕たちの間には潮騒と風の音だけが横たわった。
僕は漁り火の上の方にさそり座を見つけた。そしてその中のアンタレスを確認した。前にここへ来た時にもたしかあの星を見たような記憶がある。僕はあの赤い星を見ながらギターを弾いた。指先が痛くなるほど弦を弾き、声がかすれるほど歌った。その喉をビールで潤した。あれから8年も経ったのだ。
僕はエルトン・ジョンの『ダニエル』を小さく口ずさむ。あの頃よく歌っていた曲だ。あの頃の僕はすぐそこにいるような気がする。かと思えばきわめて遠くに過ぎ去ってしまったもののようにも思える。そのうち僕は正常な時間の感覚というものを失う。『ダニエル』のメロディだけが聞こえる・・・
どれくらい時間が経っただろう? 遠くで声がする。
「センパイ」
その声ははじめ水平線の彼方で聞こえ、風に運ばれてこっちに近づいてくる。夢なのか現実なのかをつかもうとしているところに、もう一度同じ声が今度はすぐ隣で聞こえる。
静かに目を開ける。そこには夏美がいる。頭の中は依然混沌としていて、ビールとワインの混じった匂いだけが漂っている。
僕は軽く頭を振ってから、ふと彼女を見る。彼女は寝ずに起きている。薄暗い車内の中で彼女の体だけが青白く浮かび上がっている。
「お願いがあるんです」と夏美は言い、僕を見た。僕はもう一度頭を振って、カップホルダーに置いてあった缶コーヒーの残りを飲んだ。何の飲み物か分からない味がした。
「どうした?」と僕が言うと、彼女は静かにうつむいた。そして小さく言った。
「抱いてもらえませんか?」
僕は今自分の耳に入ってきた言葉を頭の中で再生してみた。ダイテモラエマセンカ。その言語がどんなことを意味するのかを考えようとしたが、混沌たる頭の中ではそう簡単なことではなかった。
「だめですか?」と夏美は言い僕の顔を見た。ダイテモラエマセンカという音に少しずつ意味が加わってゆく。
「本気の言葉?」と少し間をおいてから僕は言った。
「本気です」と夏美は言った。
「それはさすがにやめとこう」と僕は言った。
すると夏美はうつむいたままシートに深く沈み込んだ。彼女からは憂いを帯びた空気がゆらゆらと立ちこめていた。僕はなぜだか罪悪感のようなものを感じた。
「今日私は、先輩に抱かれようと思ってここに来ました」
「何のために?」
僕がそう言うと彼女はゆっくりとした口調で言った。
「きちんと決断するためにです」
僕はコンビニの袋からペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出し、それに口を付けて飲んだ。正常な空気が少しだけ頭の中に入ってきたのを感じた。
「というか、私、たった今決断がつきました。ちゃんと結婚します。ただ、結婚した後になって他の誰かに抱かれたいと思うことがないようにしたいんです。だから今のうちに、後悔しないようにしときたいんです」
夏美の言わんとすることが理解できないわけでもなかった。しかしここで彼女の要求に応じれば2度と彼女と会えなくなると思った。そればかりか電話やメールをすることもなくなるだろう。それは僕にとっては手痛い喪失でもあった。
「私、先輩に抱かれたいと本心から思ってるわけだし、かといって後になって先輩を追いかけ回すようなことはしませんから」と夏美は言った。「これからの自分の人生を本気で考えた時に、私、どうしてもここで先輩に抱かれたいと思うだけなんです。先輩に抱かれたら、私、何の心残りもなく結婚できます」
夏美はそう言い切ってから体を僕の方に向けた。薄暗い車内においてその瞳が僕をとらえているのが分かった。偽りのない瞳だった。
彼女は結婚するのだ。いずれにせよこれまでのように気安く連絡できなくなるだろう。それよりも僕の行為がこの子の決断の手助けになるのなら、それはそれで意味のあることかもしれない。僕はそう考えた。だが一方で決して触れてはならぬものに触れるのではないかという、ある恐ろしさにも似た感情が湧いてきたのも事実だ。僕はこの2つの想いに挟まれて身動きがとれなくなってしまった。
しかし僕は寂しかった。どうしようもなく寂しかったのだ。ダイテモラエマセンカという言葉は風化しかけていた僕の心に火をつけることにもなった。寂しさを埋めたいという強い衝動はこれまで守ってきたものをいとも簡単に乗り越えたのだ。
僕は助手席の彼女にそっと手をさしのべた。夏美の体はずっとやわらかかった。女の子の体に触れるのはいったいいつ以来のことだろう? 失いかけていた感覚が体の端から中心に向けて少しずつ取り戻されているようだった。
僕は時間をかけて夏美の髪をさすり、頬を撫でた。彼女は子犬のような表情で応えてきた。それが終わるとガーゼ地のマフラーを取り、白い薄手のワンピースを脱がせた。そして完全に裸にしてから、闇に浮かぶ彼女の体のすべてに目を通した。透き通ったとても美しい体だった。乳房に口を付ると彼女はかすかに反応した。思っていたよりもふっくらとした僕にしてみれば理想的とも言える形の乳房だった。夏美と出会ってから10年以上経っているが、初めての夏美との出会いだった。それから僕たちは長いこと口づけをし、お互いの体を徹底的に愛撫した後で交わった。もはや自分をコントロールできない状態になっていた。夏美も同じだった。
しかし僕はそうやって彼女を抱きながら、何かが壊れてゆくのをはっきりと感じとっていた。それは僕たちを包み込んでいた1つの時代だった。貴重な歴史的建造物が崩壊するかのように、僕らの時代も音を立てて崩れていった。僕はもう2度と夏美と会うことはないということを悟った。するとどうしようもなく夏美がいとおしく感じられてきた。僕がより強く抱きしめると夏美も同じくらいの力で抱き返した。