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スリーアローズ
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マリッジ・ブルー

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 結局僕たちは3回交わった。思い残すことはもう何もなかった。
 僕たちはお互いの汗をタオルで拭き取った後で、裸のまま手をつないで横たわった。眠りは瞬間的に襲ってきた。
 目を覚ました時、まだ星は輝いていた。漁り火も幾つか見えた。夏美はかすかな寝息を立てて眠りについていた。僕は彼女の上にワンピースを掛けてやった。携帯電話を出してみると時刻は朝の4:40だった。夏美は朝早くの新幹線で実家に帰ると言っていたのをふと思い出した。
 僕はペットボトルに残っていたミネラルウォーターを一気に飲み、ジーンズをはいてから砂浜を歩いた。昨日の流木があと少しで水に浸かりそうになっている。潮が満ちてきているのだ。頭の中には夏美の透き通った体があった。あれは現実に起こったことかどうか未だに信じられなかったが、彼女のぬくもりはまだ体内に鮮明に残っていた。彼女の体は予想を遙かに超えるほどに美しかった。それはもう大人の体だった。
 歩いているうちに頭はすっきりとしてきた。少ししか寝ていないが深い眠りだったようだ。まだ暗いうちにこの海岸を離れよう、僕はそう思った。
 僕はコラードに戻りエンジンをかけた。夏美は窓の方に少しだけ体を傾けて眠っていた。その横顔はやはり白く、美しかった。僕は顔にかかった彼女の髪をそっとかき上げてやった。
 昨夜来た海岸沿いの田舎道を抜けて国道に出る。まだ夜が明けていないとあって、走っているのはほとんどが大型トラックだ。ラジオをつけるとデビュー当時の松任谷由実の音楽が流れていた。夏美が起きてしまわないようにボリュームを絞り、そのかすかな歌声を聞きながらコラードを走らせる。大学時代からの夏美との想い出が、まるでタイプライターで文字を打っているかのように1つ1つ胸に刻まれてゆく。
 高速道路に乗り、最初のパーキングエリアでトイレに寄る。それから再び車に戻ったら夏美は目を覚ましていた。彼女はワンピースのボタンをとめながら、おはようございます、と言い、口づけを求めてきた。僕はそれに応じた。
 もはや僕たちはこれまでの関係ではなくなっていた。
「昨日は、楽しかった」車が再び走り出すと夏美はつぶやいた。
「頭痛くない?」と僕が聞くと、「痛くないです。だってよく寝たから。ここ数日にはないくらい熟睡できました」と言った。とはいえその目元はまだ眠そうに見えた。
 高速道路を走っているうちに東の空が黄色くなり始めた。からりとした朝だ。
「予定通り始発の新幹線に乗るの?」と僕は訊いた。
「はい」と夏美は答えた。「用事があるんで」
 それから彼女は乱れた髪を指先で整えはじめた。
 交通量は日中の半分以下で、美しいアスファルトの道路が朝焼けに向かってまっすぐに伸びている。僕たちは何も言わずに前に進んでいる。
 そのうち高速道路を下り、再び国道に入る。そろそろ通勤が始まってもいい時間だ。大型トラック以外の車も増えてきている。僕たちの周りでは世の中のありふれた日常が始まろうとしている。
 夏美はいつの間にか髪を後ろにまとめ、さっぱりとしている。そして窓の外を見つめている。そこにいるもう1人の彼女と対話しているみたいに。彼女は分かっていない。車の中にいる自分と窓の外にいる自分。いったいどっちが本物の自分なのか。
 まもなく駅ビルが目に飛び込んでくる。別れの時が近づいてきた。大学時代から妹のように慕ってきた夏美とのお別れ。僕は言いようのないさみしさを胸に感じる。僕たちの時代がいよいよ幕を閉じようとしている。
 大切なことはそれを失った後になって初めて分かるものである。裕子と別れた時に学んだはずの言葉がよりによってこの期に及んで思い起こされる。昨日の夜夏美を抱いたことが果たして正しかったのかどうか、太陽が上がるにつれてますます分からなくなる。
「朝飯でも買っていくか?」と僕は言う。
 すると夏美は首を横に振り「大丈夫です。お腹空いてませんから」と小さく言った。
「そうか」と僕は言い、自らの提案を引っ込める。これまでとはあまりに違うよそよそしさに戸惑う。 
 駅前の駐車場にコラードを停める。車が停まると同時に夏美はため息をつき、それから僕を見た。その目には涙こそなかったが、泣いている以上に哀しそうな顔をしていた。
 僕は思わず彼女を抱きしめた。彼女も僕の胸に頬をうずめた。しかし彼女はすぐに体を離し、こう言った。
「先輩には言葉にならないくらい感謝してます。先輩だけでした。こんな私のことを最後まで認めてくれたのは。先輩だけは私を見捨てなかった。私、先輩がいなかったら、今みたいに生きれてないと思う」
 彼女の美しい瞳の中には僕の姿が映っている。頼りない僕の姿が。
 俺たちは似たもの同士だったんだよ、と言おうとしたが言葉がうまく出てこない。結局僕は何も言えずにただ何度か頷いただけだった。
「私、幸せになります。自分の手で、幸せになってみせます」
 夏美はそう言ってから、ドアを開けて外に出た。駅前にはサラリーマンたちが集まりはじめている。僕はやはり何も言えずに、ただ彼女に向けて手を振った。彼女は結婚するのだ。僕にできることはもはや何もないのだ。
 彼女はドアを閉めた後こっちに向かって手を振り、「ほんとうにありがとうございました」と叫ぶように言い、頭を下げた。
 それからくるりときびすを返し、サラリーマンたちと一緒に改札へと進んでいった。僕は彼女の華奢な背中の一点だけを見つめた。それは順調な時間の経過に従って確実に小さくなっていった。同時に彼女のぬくもりも一緒に遠ざかってゆくようだ。昨夜の記憶がまるで前世での出来事のようにさえ思えてくる。
 彼女は自分の足取りで歩を進めている。白い薄手のワンピースが、ダーク調の背広たちの中に心許なく漂っている。そんな彼女の背中は見えたり隠れたりしながら、やがて雑踏に消えていった。結局一度もこちらを振り向かなかった。
 1人取り残された僕は胸がふさがるような気分に襲われた。
 それから駅ビルの中にあるマクドナルドに入り、コーヒーを飲んだ。すると彼女の乗る新幹線が発車するアナウンスが聞こえた。まもなくして新幹線の振動がビル全体を震わせ、あっという間にはるか彼方へと消えていった。
 ありがとうと言いたいのはこっちの方だよ。何度も心の中でつぶやきながら、コーヒーの中に少しだけミルクを入れ、それをゆっくりかき混ぜた。