マリッジ・ブルー
「考えないね」と僕は答えた。しかしそれは本心ではなかった。僕はもうすぐ30歳になる。最近になって自らの人生というものを深刻にとらえるようになっている。ただ、今夏美に言ったように、具体的行動を起こすための気力がわかない。朝起きなければと思いつつもついつい布団の中に潜ってしまう時の感覚に近い。しかしそんな個人的感慨を語ったところで彼女には何の得にもなるまい。
「男と女の違いですかね」夏美はパスタを絡めたままのフォークに視線を落としながら言った。「私、25歳を過ぎた頃からすごく焦りはじめたんですね、ほんとうに今のままでいいのかって。正直に言うと、私は結婚するよりも子供を産みたいんです。自分の子供の顔を見てみたいんです。そのためにはあまり遅くならない方がいいなって」夏美はそう言ってからパスタをゆっくりと口に運び、静かに噛んだ。
「正しいと思うよ」と僕は言った。そう言った後で、僕はどういうわけか突然むなしくなってきた。むなしさに支配されるのはよくあることだ。ただ、こうして夏美の話を聞いていると自分の愚かしさだけがやけに強調されてくる。洞窟の中に1人でしゃがみ込んでいるかのような孤独感が僕の心から魂を抜き取ってゆく。
今頃裕子はどこで何をしているのだろう? 不意にそんなことまで考えた。それはまったく予期せぬ未練の介入だった。どうしたことか急に裕子が恋しくなったのだ。ここ数年完全に忘れていた感覚に突如襲われることになった僕は、ちょっとした精神的混乱をきたした。
夏美が言うようにたしかに裕子は魅力に満ちた女性だった。ただ1つ残念なのは、そのことに気づいたのは彼女と別れた後のことだったということだ。彼女がプーケットに向けて旅立ってからというもの哀しみで眠れなかった。そしてそれからしばらくの間、アパートの外に出る気さえ起こらなかった。それで、やっとのことで外に出たその夜に、ふとたどり着いたのがこの海岸だった。
その後僕は何人かの女性と付き合った。さみしさを埋めるためには新たな女性を見つけるしかないと思ったのだ。しかし裕子ほどしっくりくる女性と出会うことはなかった。むしろ余計にさみしくなるばかりだった。
大切なことはそれを失った後になって初めて分かるものである。その時僕はそう学んだ。
「先輩」と夏美は言った。僕ははっとして彼女の方を見た。「ワイン飲みたいです」と彼女は言った。同感だった。
海からの風が強くなってきたようだ。僕たちは知らないうちに完全なる夜に包み込まれていた。コラードに戻って、座席をめいっぱい下げ、窓とサンルーフを開け放す。それからワインのキャップを取り、お互いの紙コップに注ぐ。カマンベールチーズとチェダーチーズの封も切る。チーズの香りが車内に漂い、風に揺れた。
僕たちは改めて乾杯し直し、ワインを口に注いだ。封を開けたばかりで渋みが目立つが、だからといって飲めないワインではなかった。
「先輩」僕がワインの味を口の中で確かめていると夏美が話しかけてきた。僕はワインの味を忘れて彼女を見た。彼女は両手でコップを持ち前を向いたままだった。それから声を小さくして言った。
「じつは私、ほんとうにこのまま結婚していいのか、今になって分からなくなってるんです」
彼女は僕にどんなことを言ってほしいのだろうと考えてみる。しかし僕には見当がつかない。なんとなしに海に目をやると水平線上の漁り火はさっきよりも増えている。
「焦りすぎですかね?」と夏美は訊いてきた。
「さっきも言ったけど、夏美は正しいと思うよ。うまく言えないけど、自分の決断に誇りみたいなものをもっていいと思う」
「決断、ですか?」と夏美は言った。また意外な言葉に反応した。
夏美はシートを少しばかり倒した。それからフロントガラス越しに広がる星空を見上げながら話し始めた。
「私のこれまでの人生を振り返ってみると、自分のために生きてこなかったように思えるんです。中学生の頃にすごく尊敬できる先生がいて、その先生の薦めで生徒会に入ったんですね。で、先生がおっしゃったんです。『人のために頑張らなきゃいけない。それがやがては自分のためになるんだ。自己犠牲の精神だよ』って。私、まだあの時は思慮分別もついてなかったから、あーいい言葉だなって思って素直に感動したんです。それに、その先生に恋心みたいなのも抱いてたから、余計に心に染み込んだんです。考えてみればその言葉はこれまでの私の人生の指標みたいになっていたんですね」
夏美はそう言った後で体を少し起こしてからワインを口にした。それから軽くなったコップをカップホルダーに置いて、再びシートにもたれて星空に目をやった。
「大学に入ったのもそう。ほんとうは美容師になりたかったんです。でも両親は大学ぐらいには行っとけって言うんで、その期待に応えようと頑張ったんです。自分を産んでくれたのは両親なんだから、親孝行しなきゃって。うちの親にしてみても、一番上の姉は外国語の専門学校に入ってそのままアメリカに行っちゃったし、次の姉も医療系の短大でしょ。だから私には4年制大学に入ってほしかったんでしょうね」
「なるほど」と僕は言った。ワインを飲みたい衝動に駆られたが、これ以上酔うと夏美の話を理解できなくなりそうなのでほどほどにしておく。
「お父さんがあんな病気をして家に帰ったのも私。上の2人は看病する気なしですよ。どうせ私がやるだろうってはなから決めつけてるんです。もちろん私はほんとうにお父さんとお母さんが心配だったから、家に帰ったことは全く後悔してないんです。ただ、今のままずっと家にいても何かが大きく変わるわけでもないし、私にとってのチャンスが来るわけでもない。時間だけが経って、私はどんどん歳をとってゆく。そう考えると変に焦りはじめてきて、それで思い切ってお見合いしたんです」
「まちがってないよ。すべてが夏美らしい判断だと思う」
「でも、結婚を控えた今になって、これは言っちゃいけないことかもしれないけど、私、両親に対して不信感をもつようになったんです。この人たちがいなければ、姉たちのように結婚を焦ることはなかったのかなって。自分の子供を産むことじゃなくて、私は両親に孫の顔を見せたいと思ってるだけじゃないかって、最近はそんなふうに思うようになったんです」
夏美は深いため息をついた。窓から入る潮風が彼女の髪をなびかせる。連動してヘアリンスのかすかな香りが立ちこめる。僕はラジオでも聞きたい気分になった。
「先輩」と彼女は言った。僕は彼女を見た。「あの時家に帰ってなかったら、私、中澤君と結婚してましたかね?」
難しい問だった。同時にきちんと答えなければならない問でもあった。
「中澤とは縁がなかったんだよ」と僕は思い切ってそう言った。夏美はゆっくりと僕の方を見た。
「あいつ、たしかにいい奴だけど、夏美と結婚する男じゃなかったと思う」
「なぜですか?」
間髪入れぬ質問に言葉が詰まる。頭の中でひしめき合う様々な想念を何とか一括りにして僕は言った。
「第三者的な勘だよ」
その言葉を受け容れた夏美は鼻でため息をつき、「先輩、やさしいですね」と言った。それから再び星空に視線を投げた。