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スリーアローズ
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マリッジ・ブルー

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「お父さんは、何というか、ガッツがあるんですよね。昔は水泳の選手だったんですけど、体育会的な根性主義で育ってますからね」
「たしか、学校の先生だったっけ?」
「ですね。退職しちゃいましたけどね。まだ定年前なのに、無念だったと思いますよ」
 夏美はそう言ってジンジャーエールを口にし、キャップを締めた後でスカートの裾を整えた。それから細く長いため息をついてから、窓の外に視線を投げた。
 国道を下りてからというもの辺りはすっかり暗くなり、外灯もまばらになった。夏美が窓を開けると草木が揺れるさらさらさらという音がコラードの低く唸るようなエンジン音と一緒に車内に入ってくる。
 僕は古い酒屋の店先に置いてある自動販売機の前で車を停め、缶ビールを5本ばかり買った。とてもよく冷えたビールだった。車に戻るとずっと外を眺めていた夏美が独り言のように言った。「だいぶ海らしくなってきましたね」
 コラードの前に砂浜が現れたのはそれからまもなくのことだった。両サイドは岩が突き出ているために、ほんの小さなまるでプライベートビーチのような砂浜だ。
 大学4年の秋、ちょうど裕子と別れた後にこの海岸にたどりついたことがある。あの時僕はここでビールを飲み、ラジオを聞いた。それからギターも弾いた。その時は中古のゴルフのオープンカーに乗っていたので、幌を全開にして星を見ながら眠りについた。そんな情景がまるで1週間前の出来事のように目の前に甦る。
 サイドブレーキを引き、僕はため息を1つつく。それからドアを開けてゆっくりと外に出る。潮風がやさしく迎えてくれる。夏美はひょいと外に飛び出て浜辺に向かって小走りに進んだ。1本だけ立っている外灯が彼女のワンピースをまるでカゲロウの羽根のようにうっすらと映し出した。
 僕はさっきのコンビニの袋を後部座席から取り出して彼女についていった。砂浜には手頃な大きさの流木がちょうど横たわっていて、僕たちはそれに座ってさっそく乾杯した。水平線上には漁り火が3つ輝いている。空には星が細かい電飾のように散らばっている。前回来たときと何も変わっていない。おそらくここは世の中の流れから取り残された海岸なのだ。
 彼女は美味しそうにビールを喉に通し、パスタを食べた。僕はそんな夏美の姿を肴にビールを飲み、サラダをつついた。あっという間に僕のビールは空になった。
「なんか、なつかしいですね、このアウトドアの感覚」夏美は缶ビールを手にしたままつぶやいた。僕は何も言わずに彼女を見た。
「昔は楽しかったです」
「昔って言っても、たかだか7、8年前のことだけどね」と僕は言って新しい缶を開けた。
「もうずいぶん昔のことです。私の中では弥生時代とかとあまり変わらないくらいです」と彼女は言い、もう一度ビールを口にした。
「よくみんなでキャンプとかしましたよね」と夏美は言った。「みんな」の中にはもちろん中澤も含まれていた。僕たちはレクリエーションのサークルを作っていて、キャンプに行ったり登山したり、スポーツの大会に参加したりした。大会がない時でも、誰かのアパートに集まって意味もなく酒を飲んだ。
「なにもかもが濃くて、自由でした」夏美はそう言って足下に落ちている小石を拾い上げてその砂を払った。僕は眼前に広がる海に目をやった。水面はまるで絹のようにゆるやかに波打っている。そうやって海を見ていると、夏美の言うように7、8年前はどうしようもないくらいに昔のような気がしてきた。
「また戻りたいなあ、あの頃に」と夏美は言った。僕は何も言わなかった。何とも言いようがなかった。
「ところで」と夏美は言って僕の方を見た。「1つ聞いてもいいですか?」
 僕はいいよと応えた。
「どうして裕子さんと別れちゃったんですか?」
 僕はビールを飲む手を止めて言った。
「いきなり鋭い質問だな」
「ずっと気になってたんです。だって裕子さんすごくやさしかったし、しかもきれいだったから、どうして先輩はあんな人と別れちゃったんだろうって」
 僕はビールを飲み、ミートソースのパスタを口に入れた。ぬくもりはなくなっていたがトマトケチャップの味はまだ生きていた。僕はパスタをゆっくりと噛みながら言った。
「要するに破綻してたんだよ、俺たちは」
 夏美は少し首をかしげてこっちを見た。僕は早くも酔いはじめていた。
「裕子は日本を出たかったんだ。もっと広い世界を体験したかった。それで、4年生になってからいろいろと情報をかき集め、ダイビングのインストラクターとしてプーケットに行きたいと思うようになったんだ。それって、どういうことだと思う?」
「先輩には申し訳ないけど、先輩よりも自分の夢を優先したということですか?」
「そう思うよな。間違いじゃない。ただ、それに加えてもう1つ問題があった。俺の心だよ。俺は彼女からその話を聞いた時に、さほどショックを受けなかったんだ。つまり、俺たちはそろそろ潮時だって、自分で分かってたんだ。裕子の方もだ。たとえば末期の病気にかかったら自らの死期を悟るっていうだろ。たぶんああいうのと同じさ。俺たちは付き合いながら、そのうち別れるだろうなって互いに悟り合ってたんだよ」
「どっちが悪いとかじゃなくてですか?」
「そうだよ。そりゃ、あの時はお互いに自分は悪くないと思っていたさ。追いつめられた時には人のせいにしたがるのが人間だからね。でも、あれから時間が経って冷静に考えてみると、あの時俺たちは別れるべくして別れたって気がするね。別れる運命だったんだよ」
 夏美は思いの外僕の話にきちんと耳を傾けていた。そんな彼女を見ると、少しばかり話しすぎてしまったような気がしてきた。僕は新しいビールを空けた。
「たしかに、人のせいにしたがるのが人間ですよね」と夏美はつぶやいた。僕にしてみれば意外な言葉に反応したものだと思った。言ってはならないことを口にしたような気にさえなった。夏美はサンダルの中に入った砂を指先で払っていた。
「先輩、今彼女とかいないんですか?」
 彼女はきれいになったばかりのサンダルを再び履きながら小さく言った。
「いないよ」と僕は言った。
「作ろうとしないんですか?」
「今のところはそういう気にはなれないね」と僕は答えて手に持っていたビールを空にした。それから最後に1本だけ残ったビールを掲げて、俺が飲んでもいいかと聞いた。夏美はどうぞと言って2、3回うなずいた。
「どうして彼女作らないんですか?」と夏美はさらに聞いてきた。なかなか答えにくい問だった。僕はビールを飲みながら考えた。
「どうして彼女を作らないか・・・それは、今言ったとおり、そういう気になれないからだよ」と僕は言った。そうとしか言いようがなかった。
「1人の方が落ち着くってことですか?」
「まあ、そういうことかな」と僕は言っておいた。
「結婚とか考えないですか?」と夏美はそれまでよりも一段低い声で聞いてきた。